2020年の暮れから21年の始めにかけて中国の仕事が滅法忙しかった頃、寝るヒマもないほど原稿を書いていたらいつのまにか生活の昼夜が逆転してしまい、その後「デジモンゴーストゲーム」のシリーズ構成の仕事に休む間もなく突入した事情もあり、以来すっかり昼型になっている。
午前3~4時に起きて昼まで仕事をし、昼寝してちょっと休憩するともう夕飯の時間で、その後は夜の8時~9時には寝てしまう。まるでおじいさんのようだが、実際今年の秋には還暦を迎えるから、あながち妙でもない。
よって、上の写真のように、明け方仕事をしたり模型を作ったりしていると、毎日『明けの明星』が見える。角張った2つの建物のやや斜め左上にあるのがそれである。
そろそろ疲労も限界に達しつつあるが、今年の秋くらいまでは何とか持ちこたえるしかない。
そんな中、北京オリンピックは午後の競技なら見られるので、しばしば見ている。ひいきのカーリングは大事な試合が日本時間の午後9時から10時頃にスタートする事が多いから、その時間は既に寝ていて見られないのだが、ダイジェストや再放送で時間が合うと必ず見る。
4年前の平昌オリンピックの時、2018年2月16日に、「笑う女、立つ男」というタイトルで、当時のLS北見(藤澤五月を始めとする今のロコソラーレの原型)の、「笑顔を武器に世界と戦う彼女たち」と、フィギュアスケートのリンクに立った羽生結弦がまるで「世界の王のようだ」という記事を書いた。
あれから4年が過ぎ、彼女らと彼はさらに進化した。
両方に驚いている。
まずカーリングのロコソラーレ。
ネットニュースの見出しでは「空前の混戦状態」と書かれていたが、確かにそうで、順当に予選で勝ち星を上げているのは強豪国スイスのみで、後は上位がほぼ横並び、昨夜ロコソラーレがアメリカを下し、後は予選最終戦のスイスを残すのみとなった今でも、まだ本戦(準決勝)進出は決まっていない。
4年の間にすっかり彼女らのトレードマークのようになった、「試合中の笑顔」だが、今回は難しい氷の状態にかなり苦しめられているらしく(それは他国も同様のようだが)、時折、別にダジャレではなく藤澤の横顔が一瞬凍り付いたようになる瞬間がある。
それでも彼女らは、変な日本語だが「執念の笑顔」とでもいうべき、ああなると最早「面魂」と言ってもいい表情で、激戦のただ中にいる。藤澤は大会前のインタビューで「4年間で成長した私たちを見てほしい」旨を言っていたが、確かに、今の彼女らは、平昌の時に比べてどこか堂々としていて、相手国選手が微妙に「びびっている」瞬間がみてとれる。
スポーツとは不思議なもので、技術や体力だけではなく、こうした心理戦や「相手を圧倒するオーラ」が大事で、特にオリンピックのような巨大なプレッシャーののしかかる国際大会になると、上位はどの国もレベルは僅差、後はその「オーラ」や「心理」が勝敗を決する場合が多い。
藤澤が言う「4年間の私たちの成長」とは、この「強者のオーラ」を身に纏ったという事ではないかと、試合を見ながら感じた。決めるべき時には必ず決めてくる藤澤を筆頭に、スイープの力強さと絶妙な力のさじ加減、戦術の緻密さ、氷の状態を読む時の猛禽類の如き鋭い眼差し(女性選手を猛禽類に例えるのもどうかと思うが、褒め言葉です)、これらが、渾然一体のオーラとなり、時に相手を圧倒している。
それを上回る「鬼強敵感」全開の、韓国のメガネ先輩とそのチームには破れてしまったが、あれもまたスポーツの醍醐味である。藤澤とメガネ先輩の激闘は、勝敗に関わらず素晴しいものだった。
こうなると結果はどうでもよく、ロコソラーレには、あの、他を圧倒する「笑顔の後ろにある不屈のオーラ」を武器に、最大限の力を発揮してもらいたい。どれだけエキサイティングな勝負を繰り広げるか、また、「きっとエキサイティングな勝負になるに違いない」と思わせるあたりが、4年前との最大の差ではないかと思っている。
一方の羽生結弦。
同居女子が彼女の大ファンで、4年前もテレビの前でキャーキャー言いながら見ていたのだが、今回は4位になったにも関わらず、彼女がはからずも言った。
「4年前より、もっともっとよかったよ」
私もそう思っている。
以前の記事では(平昌で二度目の金メダルを獲った時)、彼の事を「まるで氷上に君臨する王のようだ」と表現した。
その後、折りに触れ彼のドキュメントが放送される度に見たのだが「二度金メダルをもらって、平昌後は少し目標を失った時期があった。でも、4回転半への挑戦という新たな目標ができ、またモチベーションが上がった」という趣旨の発言があったと記憶している。
前人未踏の『4回転半』。
王は、練習中の数々の怪我に苛まれながらも、この4回転半の実現に向けて進撃を止めなかった。今回の、4位になったフリースタイル数日後の合同記者会見では、「実はフリー前日の練習で捻挫していて、廊下を普通に歩いても痛い状態」だっとも言っていた。
それでも、彼は本番で4回転半に挑んだ。それが必然であるかのように。
その後、人によっては「3回連続の金だって前人未踏なのだから、無理に4回転半に挑む必要はなかったのではないか」という意見もあったようだ。
だが、私はそれは違うと思う。
私は羽生結弦ではないから彼の本心は知る由もないが、おそらく、王にとっての「前人未踏」とは最早三度目の金メダルではなく、世界で誰も(本番で)成功させた事のない、4回転半に挑む事、それ自体が己に課した、あるいは己が渇望した挑戦だったのではないか。そんな気がしてならない(練習の時は三回に一回は成功するくらいだったと言っていたから、本番でこれに挑むリスクはかなり高い)。
もしそうだとすれば……。
これが、つまりはスポーツの神髄なのである。
結果がどうあれ、メダルに届こうが届くまいが、持てる力の全てを出し、いや、その先にある新たな地平を見たいがために、周囲から何と言われようと限界を越えた世界に挑んでいく。それこそが、トップアスリートの究極の姿なのではないか、そしてそれは、「メダル至上主義」とは無縁の、極限に挑む人間の孤高の美しさで、羽生結弦はそれを体現したのだと思う。そうした王の強靱な意志または信念の前では、転倒など些末事でしかない。
ロコソラーレ同様、王はこの4年で、こうした常人には信じられないような境地に達したのかもしれない。
ならば、最大限の賛辞を送りたい。北京での彼は、やはり紛れもなく『氷上から他を睥睨し、己の限界を越えようと歩み続ける王』だった。
昔からオリンピックについてとやかく言う人も多いし、今回もまた様々な負の側面が浮き掘りになってもいる。
しかし、ロコソラーレや羽生の4年前と今の姿を見比べた時、私は思うのだ。
「人間の究極の挑戦をスポーツという形で見せる。それがオリンピックであり、だからこそ、魅力的な国際大会なのではないか」
と。
ある時、晩ご飯を食べながら、同居女子に聞いてみたことがあった。
「羽生結弦の、どこがそんなにいいの?}
彼女は即答した。
「美しいの。羽生くんの、何もかも、が」
私もその一言に尽きると思っている。