作品か、商品か | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 仕事の合間に少しずつ作っていた模型がきのう完成した。

 1/200のボーイング737-800。

 約120人乗りで、どこの国でも主に国内線で使われている短・中距離用機で、もちろん日本でも、今は感染防止のために便数は減っているとはいえ、今でも毎日運行されている機種である。白い機体にピンポイントで赤の鶴丸マークは、やはり見ていて飽きが来ないし、そもそも美しい。

 同居女子は私の模型が完成する度に真顔で「これはまさしの作品だね」と言うのだが、そう言われた私はいつも恥ずかしい思いをしている。単なる趣味の模型だし、どうも私の中では「作品」という気がしない。

 

 「作品」と言えば。

 前にこんな事があった。

 かなり若いライターと飲み会(私は飲まないので、私だけ食事会)をしていた時の事。

 彼は若いから仕方がないとはいえ、脚本の仕事を始めてまだ数年。彼の書いたプロットが出来上がってくると、監督やプロデューサーから猛烈なダメ出しを喰らい、しばしばへこんでいる。

 特に相談された訳ではなかったが、彼が「書いていると(内容をどうしたらいいか)煮詰まってしまう事が多くて、それでいつも締め切りギリギリになってしまうんです」と言う。

 こういう時、私は意外に(と、周囲からよく言われるのだが)辛辣である。

 彼に言った。

「『悩む』ってのはな、『悩みの中に逃げ込んでる』だけだ。そんな事に時間を使うのはもったいない。悩んでるひまがあったらとにかく手を動かして何でもいいから書け。後で読み返してみてダメなら、その時に直せばいい」

 彼はしばし考え込んでから、多少口を尖らせて答えた。多少はムッとしたのだろう。

「でも、十川さんは経験が長いから悩まないんだろうけど、僕はそういう訳には……」

「オレだって途中で『あれ?このシーン、どうしよう』って一瞬手が止まっちゃう時はあるよ」

「そういう時、悩まないんですか?」

 私はきっぱりと言った。

「せっかちなんでね。悩んでるヒマがあったらとにかく書く」

「はあ……」

 乱暴なアドバイスだとは思ったが、そう言った。

 

 さらに彼の話を聞いてみると、つまりはこうだった。

 以前からモノを書く事が好きで脚本家になった。幸いこうして仕事もある。だが、ダメ出しは多いし書いてる途中でどうしたらいいかわからなくなる時があるし、そもそも仕事で書くと自分の書きたい事なんてほとんど書けないし、という、若いライターにありがちな悩みを抱えているらしいのだ。

「ははあ」と気がつき、私はジンジャーエールを飲みながら言った。

「もしかするとさ、君は自分の書いてる脚本や出来上がったアニメの事を『作品だ』と思ってないかい?」

 彼はきょとんとしながら「そりゃそうですよ」と言った。

「違うよ、あれは『作品』じゃなく『商品』だ。明確にね」

 多少酔っていたせいもあったのだろうが、彼はさらにきょとん、というより最早唖然としている。

「しょ、商品……ですか?」

 その後、私は、さすがに若手ライターに現実を突きつける事になるので口調を和らげながら以下の説明をした。

 つまり、私たちの作っているアニメは視聴者に楽しんで貰う目的で作る娯楽を目的とした商品である事。その証拠に、一つのアニメの一話分を作るだけでも全てのセクションを合わせれば100人近いスタッフがいて、その総合力で出来上がるものであり、どんなにカリスマ監督やプロデューサー、凄腕の脚本家が手掛けたものだとしても、それだけの人数がよってたかって作り上げるものは『作品』ではなく『商品』なのであり、「作品』を作ろう」などとなまじ身構えてしまうから悩むのだと。

 ただし、と前置きした上で私は続けた。

「それだったら『最高の商品』、お客さんが『これはいい』と喜んでくれる商品を作ればいいのさ。『フツーだな』とか、『この商品は使い勝手がイマイチだな』とか思うような物は欠陥商品だ。敢えて言えば、お客さんが使った(観た)時に『ああ、これは使い心地がいいな(観ていて面白いな)』と思ったら、それはいい商品なんであって、君の考えてる『いい作品』とは、すなわち『いい商品』と同じ事だ」

 さらに、と続けた。

 (以下はあくまで私見でもあるのだが)、作品とは個のクリエイター、またはせいぜいが二~三人程度が共同で作り上げたもので、そこに強烈な「個」の意志が反映されているものをさす。100人近くが寄ってたかって作り上げたものに、強烈な「個の意志」なんかあるもんか、と。したがって、お客さんや評論家が「映像作品」と呼ぶぶんには一向に構わないが、現場で仕事をしている我々が「映像作品」だなどと思い込んではならず、常に「これは映像商品だ」と意識してないと、この仕事では生きていけないんだと。ダメ押しに、よく「映像は総合芸術」と言うが、私に言わせればそんな日本語はあり得ず、「総合とはつまり「大勢の力を集めて作られたという意味だから、既にその段階で、それは純粋な個の発露ではないのだがら、芸術ではなくなっている。だから表現としてほんとは変なんだ」とも言った。

 

 彼は今度は唖然の段階を過ぎて目を白黒させている。

 なので、これは以前にこのブログにも書いた事なのだが、彼に教えてあげた。

「オレさ、若い頃初めて書いたテレビアニメの脚本が『鬼神童子ZENKI』って番組で、最初に書いた担当回が放送されたのが、阪神淡路大震災のすぐ後だったんだ……」

「え……?」

「その時思ったんだよ。あの大地震で亡くなった子供たちの中に、もしかしたら『自分の短い生涯の中で、最後に観たアニメが自分の担当した回だった可能性があるってな」

 彼だけでなく、聞いていた他の若いライター何人かもポカンとして私を見ている。このおっちゃんはなにを言い出すんだ、急に、という感じだったろうか。

 彼が言った。

「それって……」

「つまりこうだ。自分が脚本を担当したアニメがテレビで放送され、視聴者がそれを見る。でも、不幸にもその日かその翌日に大災害とか交通事故とかに合うかもしれない。するとどうなる?その、君が脚本を担当した回は、その人にとってこの世で最後に見たアニメになるんだ。東日本大震災の時も同じ事を思ったよ。あの時、オレの脚本回を見た子供たちの中に、それが『この世で観た最後のアニメ』になった子達が、人数はどれくらいかわからないにせよ、いた事は疑いの余地が無い」

「!」

「そう考えた時、やれ『作品』だの、やれ『クリエイティビティ』だの、若いからしょうがないにしても『いずれ有名ライターになりたい』だの、そんな事言ってる場合か?『書けない』なんて悩んでる場合なのか?阪神淡路大震災の時にオレはそう思った。そんな事言ってられない。そういう可能性がゼロではない以上、自分の主張なんかはどうでもいい、とにかくお客さんを楽しませるのが最優先なんだと。そこに個の主張がなければオレには到底『作品』とは思えないし、この仕事ではそう思う必要もない。大事なのは、『誰のために最高の商品を作るのか?』って事なんだよ」

 さすがに彼は黙り込んでしまった。

 そして、しばらくして呟いた。

「すみません……自分、甘かったかもしれません。十川さんみたいに腹くくれるかどうかわかんないけど、言われてみれば確かに……」

 ちょっと言い過ぎたかなと思い、私は付け足した。

「『商品』はネガティブな言葉じゃないよ。昔のソニーのウォークマンや、iPodやスマホという、その時代時代の素晴しい『新商品』の数々が、どれほど多くのお客さんを楽しませ幸せにした事か、そう捉えればいいんじゃないかな。『最高の商品を作ろう』それでいいんだよ。だいたい、君にゼロからスマホを発想する能力があるのかい?」

「いえ、ないっス」

「だろ?オレだってない。でも少なくとも、いつも脚本を書く時には『何とか最高の商品を』って思いながら書いてるよ。いいかい、金を稼ぐってのはそれはそれは大変な事なんだ。いい商品を作り出せない者は稼ぐ事もできなければ、場合によっては労働の対価としての金を貰う事すらできないのさ。もしオレがプロデューサーだったら、プロとしての自覚が微塵もないくせに主張だけが強くて、脚本全体としてはしょーもまない、つまり『まともな商品として成立していない』モノを書いてきたライターには、ギャラなんか払わない。だって売り物にならないもの」

 彼がしょげかえってしまったのでフォローするつもりが、結局一番きつい物言いになってしまった。

 そこは今でも反省している。

 

 その後は飲み会にありがちのくだらなくも楽しい笑い話に終始して解散したが、その日以来、彼が書いてくる脚本は微妙に変化し始めた。本当に微妙で表現しづらいのだが、彼の中で、漠然とした何かがいい方向に動き出したような感触が、読んでいて確かにある。まだまだ脚本を書く上での細かいノウハウが身についていないためにつたない部分はあるものの、少なくとも読んでいて気持ちがいい。

 その「気持ちよさ」がお客さんに確実に伝わった時、それは『優良商品』たり得るという事なのかもしれない。

 

 と、こんな事を書くと気分を害するライター諸氏もいるかもしれないが、少なくとも私はこういう気持ちで仕事をしている。

 こうした考えが絶対だと特に思っている訳ではなく、あくまで私見。

 

 でも、年の瀬の今も、毎日こういう思いで仕事をしている。