「まさか」の美学 | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 皆さん、ゴールデンウイークはどうお過ごしだろうか。

 私はといえば相変わらず映画ばかり見ているが、記事の投稿がいつもより少し増えている。特に饒舌な気分になっている訳ではなく、脚本会議が休みでヒマだからだ。

 そんな休み中のきのう、脚本を担当したテレビアニメ「ゾイドワイルド」(毎週土曜日午前6時30分、MBS・TBS系列)の、私の担当回が放送された。会議でのオーダーがそうだったとはいえ、テレビのいわゆるキッズ・アニメにしてはかなりハードかつヘビーな内容で、視聴者からどんな反応が出るか気になっていた。

 放送後にネットで感想を眺めてみると(キッズではなくアニメファンの大人の方々の反応がほとんどだが、小さな子は書き込みをしないのでやむを得ない)、概ね好評でホッとしたのだが、「まさかこうくるとは」というニュアンスの書き込みが多かった。直接そう書いていた方もいらしたくらいだ。

「まさかこうくるとは」

 毎週シリーズを見ていればおのずと「次は、この先の展開は、こうなるのではないか」と想像するのが誰でも常だが、ある回を見て「まさかこうくるとは」という感想が出た場合、それを書いた脚本家にとってこれほど嬉しい事はない。

 「まさか、こうくるとは」

 アニメに限らず、映像の仕事をする者にとって、最大の褒め言葉である。

 

 

 いつの時代も、脚本も含めて新作映画は面白くなければならない。

 当たり前の事だが、その面白さの中には様々なタイプがあり、一概に「これがベスト」というものはない。ただ、タイプの一つに「意表を突く面白さ」があると思うのだが、これがなかなか作り手としては難易度が高い。

 意表を突く事自体はそう難しい事ではなく、今まで皆がやって来なかったアイデアさえ思いつけば、それを映像化すればよい。しかし問題は、「意表を突いたはいいが、そのアイデアは面白いのか?」という事で、そこが難しいのだ。大勢の、最大公約数の観客を「なるほど、これは意表を突いていて『面白い』」と思わせなければならず、それに失敗するとただの「変な映画」で終わってしまう。

 「意表を突き、かつそのアイデアが面白かった映画」の好例を一つ示してみよう。

 1962年公開の有名な「キングコング対ゴジラ」。

 これは一つの典型だつたと思っている。

 それまでに製作されたゴジラの映画は2作、初代の「ゴジラ」と「ゴジラの逆襲」で、「キングコング対ゴジラ」は「逆襲」から7年後に製作された、シリーズ第3作である。今では単にシリーズの3作目として認識されていると思うのだが、当時の状況は実はそう単純ではない。

 本多猪四郎監督と円谷英二特技監督は、「ゴジラの逆襲」から「キングコング対ゴジラ」までの間の7年間に、「空の大怪獣ラドン」、「大怪獣バラン」「モスラ」を始め、「地球防衛軍」、「宇宙大戦争」といったSF映画も含めれば、こうした類いの映画を実に9本も作っている。

 7年で9本だから、当時のプログラム・ピクチャーの忙しいサイクルを考慮してもなお、「のべつまくなしに特撮映画や怪獣映画を撮っている」という状態になる。常に新味を出していかなければならない映像の仕事にあって、これはかなり過酷な状況である。

 そんな中「キングコング対ゴジラ」を作るに当たり、両監督と脚本の関沢新一は「久しぶりにゴジラを作るに当たり、これまでの様々な特撮映画でかなりのアイデアを使ってしまっているこの状況にあって、どう新味を出していけばいいのか」という事に、相当に腐心したのではないかと想像する。

 その打開策として彼らが出してきた新作ゴジラの回答が、正に、

「まさか、そうくるとは」

 だった。

 「キングコング対ゴジラ」には、既に脚本の段階から、それまでのこれらの作品とはまるで次元の違う、「笑い」の要素がこれでもかと散りばめられていたのである。それまでの特撮映画には皆無だった「コメディ・シーン」が随所にあり、しかもその笑いがいい具合にキングコングとゴジラのバトルを盛り上げる、絶妙のアクセントになっている。

 有島一郎の演じた製薬会社の宣伝部部長は会社のアドの為に南海の島からキングコングを日本まで運んで来ようとする。彼は自分の出世のためにコングを海を渡らせて連れて来ようとするのだ。有島一郎の軽快なコメディリリーフのお陰で、このキャラクターが映画全体に与えた影響は大きく、それまでの特撮映画とは一線を画する仕上がりになっている。

 高島忠夫演じる主人公やその他のキャラクターについても、皆が皆テンポよく明るく行動的で、いえば「ポップな人たち」だ。こうした「明るく勢いのある人たち」が、コングとゴジラがくんずほぐれつ戦っているその合間を縫って奔走する様は、初代ゴジラからずっと続いていた「暗く、重いイメージ」を一新している。

 しかも今見ても、このキャラクターたちの振りまく笑いと奮闘ぶりが、何とも楽しい。

 つまり、とびきり面白い。

「怪獣映画で、まさかそうくるとは」

 そう思った当時の観客は多かったのではないだろうか。

 これは、「意表を突き、その意表の突き方が面白い新作映画を作る」という作業において、映画製作が作り手と観客のある種の勝負だとするなら、本田監督の「勝ち」なのである。

 もっとも、それまでの重苦しいテイストが好きだった向きからは、「笑いをいれるなんて」という批判も上がったのだそうで、以後「キングコング対ゴジラ」ほど(いい意味で)弾けたゴジラ映画は影を潜めてしまった。それでも本田監督は、その後も「モスラ対ゴジラ」で、「ゴジラといえば海から上がってくるものだ」というこちらの先入観を覆し、海は海でも突如砂浜を地中からぶち破って(しかも海を見ている人々の背中側から)登場するという、やはり「まさか、そうくるとは」という演出をしている。

 そう、私たち映像の仕事をする人間は全員とは言わないまでも、常に「面白いアイデアで意表を突く」事に腐心しているのである。

 

 脚本を書く時、脚本家によってその嗜好は様々なものだが、私の場合はこうした「まさか、そうくるとは」という脚本作りはいつも意識している。

 しかし繰り返しになるが、意表を突くのはいいがそれが面白くなければ全く意味をなさず、アイデアを思いついたものの「これは確かに意表はつけるが、面白くなりそうにないな」と判断した時は捨ててしまう。時に、その両方の要素を満たすアイデアを思いつき、しかも脚本会議でアイデアが満場一致で採用された時のみ、この「まさか、そうくるとは」なる作品は世に出る。

 もっとも、長年脚本の仕事をしてきて、そうした瞬間は決して多いものではなく、「ああ、今回もまた『まさか!』という作品は送り出せなかったな」と後悔する仕事の方が圧倒的に多いのもまた事実である。それほどに、簡単な作業ではないのだ。

 が、放送中の「ゾイドワイルド」では、シリーズ構成の広田光毅さんのアイデアと指示が毎回突出して素晴らしかったお陰で、珍しく、どの回もこの「まさか、こうくるとは」なる脚本を書く事ができた。

 とても恵まれた仕事だったと思っているし、毎回そうしたアイデアを枯れない泉の如く繰り出してきた彼と、それを満場一致でいつも受け入れてくれた脚本会議の面々には「感謝」の一言しかない。

 これは、本当に珍しい、貴重な現場なのだ。

 

 「まさか」の美学。

 時にこうした仕事に巡り会うと、長年続けてきてよかったと思うと同時に、まだまだこの先も書き続けていきたいという渇望も生まれてくる。

 

 「まさか、こうくるとは」

 

 今日もまた、

 

 こうして、お客さんとの楽しくてスリリングな勝負は、

 

 続いていくのである。

 

「ゾイドワイルド」 ©TOMY/ZW製作委員会・MBS