さよなら、私の愛したスパイ | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 JR新橋駅の、ごく近く。

 居酒屋の店内にほっけの匂いが、上司の悪口が、タバコの煙が渦巻く中、会社帰りの男は数人の同僚に向って言った。

「そりゃあダブルオーセブンと言えば、『ロシアより愛をこめて』だろ。『サンダーボール作戦』も好きだけどさ。ショーン・コネリー」

 同僚の一人で、赤ら顔のせいで「あかお」と呼ばれている男が言った。

「オレはアレだな。『私を愛したスパイ』。ロジャー・ムーア」

 男はあかおに仏頂面で言った。

「何でだよ。ショーン・コネリーだろ、フツー」

「だって、オレたちが中ボーの頃って、ボンドの新作はいっつもロジャー・ムーアだったじゃないか。ショーン・コネリーのはテレビで見たけどさ」

「オレは名画座で見たよ」

「細かい奴。そんなのどうでもいいよ」

 男と同期入社のあかおは、昔話になると何かと突っ込みたがる。長年の付き合いで慣れているが、いつもうるさいと思う。

 そのあかおはいつの間にか、居酒屋のすすけた天井を見上げていた。

 そして、いつなく緩やかな表情で呟いた。その顔つきがとても珍しかったので、男は意外に感じた。

「あれはなあ、『私を愛したスパイ』はちょっと特別なんだよ。シリーズの最高傑作だなんて言わないけど、特別な映画。うまく言えないけどさ」

 男は思った。

 ショーン・コネリーが最高と言った手前口には出さなかったが、男のその言葉は本当ではなかった。嘘ではないが、100%真実かと言えばそうでもない。

 汚い木のテーブルの下で、自分の足が回転し始めたような気がした。わざわざ覗いて見たりはしないが、今、自分の足が自転車のペダルを漕いでいるような気がする。

 あの足だ。今から約40年前の、あの自分の足。

 漕いでいるのだ。ペダルを。

 せっせ、せっせと。

 

 1978年の3月始め。

 ようやく冬が抜け始めた日差しのその日、男はまだ15歳、中学三年生の少年だった。

 東京近県の何の変哲もない住宅街を、少年は胸をどきどきさせながら走っていた。自転車のペダルを漕ぐ足には力が入り、住宅街を抜けて灰色の自動車工場の前を通った頃には、彼の自転車は矢のような速度になっていた。

 その心の中には、さっきからずっと同じ言葉が浮かんでは消えている。

「よかった。間に合った」

 続く言葉はこうだ。

「あと何日かで『私を愛したスパイ』が終わっちゃう。もうすぐ『未知との遭遇』が始まっちゃう」

 また同じ言葉が来る。

「よかった。間に合った」

 国鉄のガードが見え、その下を猛然とくぐった時、頭上の線路をがたんごとんと旧式の通勤電車が通過した。

 電車の音まで、少年をせかしているようだった。

「よかった。間に合った」

 ガードを抜ければ、地元の映画館までは自転車であと五分。

 少年は、これ以上は無理という力を足にこめ、ペダルを漕いだ。

 

 ロジャー・ムーア主演の「私を愛したスパイ」は、彼がペダルを漕いでいるこの春の日からおよそ二ヶ月前、77年の暮れに公開された。

 77年の夏休みには映画雑誌の付録に「私を愛したスパイ」の海外版イラストポスターが付録で付いてきて、彼はそれをずっと勉強部屋の壁に貼っていた。タキシード姿のロジャー・ムーアと黒いドレスのバーバラ・バックが背中合わせに銃を構え、その後ろに二隻の原潜が佇むそれは、彼を見守るようにしてこの半年間、自宅の壁にあった。

 ジェームズ・ボンドの三年ぶりの新作だった。

 少年が中学に入学する少し前、同じロジャー・ムーアの「黄金銃を持つ男」がやってきて、しかしその後はなしのつぶて。少年が来たるべき新作ボンドを待ち続けている間に、彼はそろそろ中学を卒業しようかという歳になってしまった。大人にすれば何の事はない三年でも、少年の体感時間はそうはいかない。

「なんだ、ボンドを待ってる間に、僕はもう中学を卒業しちゃうよ」

 少年はいつもそう思っていた。

 

 ようやく海の向こうからやってきた新作は、この国でも大人気になった。

 だが、部屋にポスターを貼り、「早く来ないと卒業しちゃうぞ」と三年もイライラしていた少年は、しかしそうすぐには「私を愛したスパイ」を見に行けなかった。

 受験生。

 暮れから正月の冬休み、「これから春までの二ヶ月で、人生が決まるようなものだ」と大人たちから脅され、「そんなはずあるもんか」と思いながらも黙っていた少年は、毎日渋々勉強机に向い、それまでの映画三昧の日々をしばらく封印していた。

 せざるを得なかった。

 今と違って巷に子供は溢れかえっている。受験の競争もやけに激しい。「この二ヶ月で人生が決まる」と言われれば恐ろしいような気もしたし、生来が本音を言わない子供だったので、少年は仕方なく、大人の言う事に従っていた。

 自分の合格不合格よりも、「私を愛したスパイ」の公開が終わってしまったらどうしよう、そっちの方ばかりを気にしながら。

 

 少年が映画館に向って風のように走ったその日、3月初めの朝、彼が受験した高校の合格発表があった。

 合格していた。

 少年は高校から矢のように自分の中学にとって返し、先生に「合格しました。じゃ」と言い自宅まで駆けに駆け、家の者に「合格したよ。じゃ、行ってくる」と言い、自転車にまたがり、弾丸のように家を出た。その日の午後は三年生は休みで、平日なのに時間が空いたのだ。

「私を愛したスパイ!今日!見るぞ!」

 あと数日で「未知との遭遇」。

 よくぞ待っていてくれた、「私を愛したスパイ」。

 ペダルを漕ぐ足にそれは力が入ろうというものだ。

 映画館のいつもの席、少年のお気に入りだったスクリーンに向って左後方のその席は空いていた。平日でもうすぐ公開が終わるという時期だから、客は彼を含めて十人ほどしかいない。

 「自分の席」に飛び込むようにして座った少年は、動悸がどんどん速くなるを感じながら待った。

 スクリーンの幕が開くのを。

「よかった。間に合った」

 と何度も心の中で言いながら。

 

 居酒屋の煙の中で聞いていたあかおは、「馬鹿馬鹿しい」という表情丸出して男に言った。

「何だよ。メチャメチャ楽しみにしてたんじゃないか、ロジャー・ボンド。合格発表の日に速攻で見に行くなんて。平日だったんだろ?何が『やっぱロシアより愛をこめて』だよ。それに、お前はその頃から甘いんだな。オレの勝ちだ」

「何が」

 男が不審げに問い返すと、あかおは自慢げに焼酎のカップを振り回して答えた。

「オレは暮れの冬休みの間に見に行ったもの。オレの勝ちだ」

「いいじゃないか別に。オレだって劇場で見た事は見たんだから」

「だってもうすぐ公開終わろうって時だろ。遅いね。ふん」

「40年前の話で威張るなよ。ヤな奴」

 だが、男にそう言われても、あかおは天井を見上げたままで、何だか楽しそうだった。

 

 映画が始まってすぐ、少年は息を呑んだ。

 アルプスの雪山の断崖に向ってスロープを滑り降りてきたスタントマンが、そのまま大自然の空中に飛び出していく。

 落ちて落ちて、深い谷底に向っていつまでも落ちていく。

「パラシュートが、開かない!」

 長い間、少年は息を詰めてスクリーンを凝視した。それまで、そんなに長い落下のシーンは見た事がなかったからだ。売店で買ったプログラムが折れないように胸の前に置き、しかし心臓の高鳴りまでは押さえられない。

 するとやがて、ようやく勢いよく開いたパラシュートには、ユニオン・ジャックのデザインがあった。そして空中に巨大な女の手のシルエットが現われ、そのユニオン・ジャックをそっと包み込む。同時にカーリー・サイモンの緩やかな主題歌「Nobody does it better 」が流れてくると、少年は虜になった。

「私を愛したスパイ」の虜になったのだ。

 

 その映画は、シリーズ10作目の記念作だった。

 スタッフの力の入れようが尋常でなく、だがこれまでの作品のおいしいシーンを網羅して詰め込んだ、大人が見れば笑ってしまうようなセルフ・パロディーの「お祭り映画」でもあった。

 少年はその「お祭り」を愛した。次々に登場するシーンに胸が躍り、そして熱くなった。

 ロジャー・ボンドが殺し屋ジョーズと格闘するのが「ロシアより愛をこめて」そのままのオリエント急行だったり。

 海の物語で「サンダーボール作戦」を踏襲していたり。

 巨大タンカーの船首が生き物のようにパカッと開き、原潜を飲み込んでしまうのは日本を舞台にした「007は二度死ぬ」の宇宙船と瓜二つだったり。

 ボンド・カーとしてリニューアルされた白いロータス・エスプリは秘密兵器満載で、しかも水陸両用で、「ゴールドフィンガー」のアストン・マーチンと同じ使い方だったり。メカニック担当のおじいちゃん、Qがボンドに車を引き渡す時、「壊すなよ」とブツブツ言っているのがおなじみだったり。

 ささやかな自分の人生に受験という暗雲が垂れ込めていた少年は、思いの外ストレスを抱えていたのかもしれない。その雲がこの日の朝に晴れた。そしてその晴れやかな少年の心を、「待ってたよ」と言わんばかりに出迎えてくれたのだ。「私を愛したスパイ」のいくつものシーンが。

 こんな嬉しい事はなかった。

 少年は映画館の座席で天にも昇る心地がした。

 嬉しくて嬉しくて。

 途中からは少し涙も出た。

 嬉しくて、楽しくて。

 コルシカ島の山間の道をロータス・エスプリが疾走する時、そのエスプリを、崖沿いのガードレールの下からゴウと浮き上がってきた黒いヘリが追いかける時、そのダイナミックな迫力と、普段はソフトでウイットに富んだロジャー・ボンドが、しかしハンドルを握りしめて瞬間クッと「本気の顔」になる時、少年は心の中で叫んでいた。

「かっこいいぞ!」

 画面の何もかもがかっこいい。ボンドも、敵も、ヘリコプターも。それを撮影している俯瞰の映像も。

「かっこいいぞ!ボンドも敵もイケー!」

 人は、人知れず心の中で叫ぶ時がある。少年は叫びに叫んだ。

 彼は、「私を愛したスパイ」を愛したのだ。

 

 映画館から出てきた時、少年はいつもの夕陽に出迎えられた。その映画館を去る時はたいていが夕方で、それは見慣れた夕陽だった。

 だがこの日の春の夕陽は特別で、二ヶ月のトンネルを抜けた彼にとってはとびきりのご褒美だったのかもしれない。

 そんな少年を、「私を愛したスパイ」という映画と、ロジャー・ムーアが優しく出迎えてくれたのだ。

「やあ、お帰り。映画館でずっと待ってたよ」

 そう言って、ロジャー・ボンドが微笑みかけてくれたのだ。少年にはそう思えてならなかった。

 何だか、自分の人生が初めて音を立てて動き出したような、そんな気のする春の夕陽だった。

 少年は、大声で叫びたい衝動に駆られた。

「よし!この勢いで、今度の週末は『未知との遭遇』だ!」

 

 居酒屋のあかおは、男の話をそこまで聞いて大声で笑い出した。

 赤ら顔に走っている歳相応の皺がぶるぶると振動した。

「バカだなあ、お前。ロジャー・ムーアが聞いたら気い悪くするぞ。それだけ感動しといて、『週末は未知との遭遇』かよ」

 男は苦笑した。

「そう言うなって。15歳の中ボーなんてそんなもんさ。家に着いた時には、心は既にスピルバーグに飛んでたね」

「いい加減なやつ」

「知ってるよ」

 だが、あかおはこうも言った。

「それだけの体験したんなら、お前だってわかってるはずだぜ。『私を愛したスパイは特別だ』って意味」

「済まん。オレ、さっき嘘ついた。最初からわかってたよ」

「やっぱり」

 その気分は、あの頃中学生だった、夢中でペダルを漕いだ自分たちにしかわからないだろうと思ったが、それでも二人は満足だった。

 嬉しくて嬉しくて。

 それでいいのだと思った。

 男とあかおは、今度は二人で居酒屋のすすけた天井を見上げた。

 その視線の先で、つい最近天に召されたロジャー・ムーアが、あの春の日と同じに微笑んでいるような気がした。

 そして、気恥ずかしいので互いに口には出さなかったが、二人は心の中で同じ事を呟いた。

「よかったっスよ、ムーアさん。あなたの『私を愛したスパイ』。サイコーでした。いやマジで」

 その晩、二人はいつまでも天井を見つめていた。

 もしかして、新橋の居酒屋の上空すれすれに、あの黒いヘリが颯爽と飛来してくれるのではないかと思いながら。

 嬉しくて、楽しくて。

 

                                         了

 

 サー・ロジャー・ジョージ・ムーア(Sir Roger George Moore)

 

 1927年10月14日生

 2017年 5月23日没

 享年 89歳

 代表作 「007/私を愛したスパイ The Spy Who Loved Me 」

 

 合掌