青龍の団兵衛(だんべえ) | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

「いまだ耳をそぎ落とされておらぬ者あらば、よう聞くがよい!某(それがし)、井川家井川景義が家臣、奥村団兵衛!人呼んで青龍の団兵衛!」

 その片腕の、左の手首から先のない、しかしそこから肩まで青龍の刺青を持つ大男は、見渡す限りの原に響き渡る大声で呼ばわった。もうすぐ三十になる団兵衛は、しかし優に四十の押し出しを持つ。

 真夏の朝焼けのその原はすっぽりとした大きな広い広い円形で、周囲を全て森に囲まれている。そこだけが、まるで天が「存分に戦え、存分に死ね」と作ったような、清々しいほど広い原だった。

 青龍の、二十代末だが四十に見える髭面男の隣には、こんもりした風呂敷のような布を抱えた小男の足軽がいて、団兵衛に慌てて言った。

「やめてくれ。敵に丸聞こえじゃ。だいたい、己を『人呼んで』などと呼ばわる阿呆があるかい」

 団兵衛は、いつも戦場で『狸』と呼んでいるその小男に、今度は敵に聞こえぬよう小声で言った。

「奴らを全て森から引きずり出したい」

「なんと?」

 狸にそう聞かれた団兵衛は、まるでその目に南蛮渡来の覗き筒があるかのように、原を囲む森を見渡した。

「その赤子の母御が来る。森に一人でも敵あらば、母御が危うい」

「なんと!おぬし、この子を本気で守り抜く気か。正気の沙汰ではないわい!」

「ここは戦場(いくさば)ぞ。所詮、狂気も正気も紙一重」

「くそっ。完全に巻き込まれたわい。腹の立つ」

「感謝しておる。まだ『荷物持ち』が生き残っておるとは思わなんだ」

 

 団兵衛は、主、井川景義の命を受け、この原から八里離れた山向こうに「野武士征伐」に向かった。数日前の事だ。

 しかし守るべき村の数はあまりに多く、分散させた家来をことごとく失い、一人向かった神宿村で野武士の集団に遭遇した。奮戦し荒くれを斬り倒し、残りはさんざんに散らせたが、自慢の青龍のその手首を失った。幸いに利き腕の右は無事だったが、無残に残された生後二ヶ月の赤子お凜を連れ、この原まで戻ってきた。

 家を留守にしていて難を逃れた赤子の母、お民には、己の左手首とともに「この原に来い」と、血の置き手紙を残してきた。

 原に戻って来てみると、仲間は全て死んでいた。だが、敵はまだまだ大勢で、今は原を囲む森の中で休んでいる。大男と小男、敵はたった二人。飯でも喰うて休んでから、存分に料理るつもりらしい。己の隊にはぐれてしまい、途方に暮れて一人ここまで逃げてきた足軽狸は、団兵衛にむんずと首根っこをつかまれて、「おぬし、この赤子を頼む」と無理に押しつけられたのだった。

 今そのお凜は、狸が見つけてきた血まみれの布に包まれ、彼の胸に抱かれている。その血の布は、敗走した味方が落としていった自軍の旗の半分だった。

 

 団兵衛がまた叫んだ。

「まだ飯を喰い終わらぬかっ。来ぬならこちらから討って出るぞっ」

 狸が囁いた。

「こらっ、大声を出すでない。赤子が泣き出したら何とする」

 だが、団兵衛は利きの右腕にこれも自慢の青竜刀を構え、鬼の如く不適な笑みで言った。

「どうせこの原、赤子の声が響こうがどうしようが、隠れる場所などない。泣かば存分に泣かせるがよい。かえって母御が迎えに来た時に『ここにおる』と知らせやすうてええわい」

「んな無茶な。わしが死にとうないと言うとるんじゃ」

「たわけ。貴様、足軽だろう。一度具足を付けたら、腹をくくれい」

「団兵衛」

「何じゃ、狸」

「死んだら化けて出てやるぞ。必ずじゃ」

「阿呆。狸如きに化けて出る度胸なぞあるものか。しゃらくさい」

「ふんっ。そうかい」

 と、団兵衛が鋭く短く一言言った。

「来るぞ」

 森が揺れたように見えた。

 鬨の声を上げ、敵の部隊が四方八方から飛び出してきた。そして、野放図にも原の中央に仁王立ちの団兵衛と、仁王立ちにはなりたくないがやむを得ない狸の二人に向かい、どうと駆けてくる。その数、およそ百二十。幸いにも騎馬はなく、種子島もないようだ。

 ならばまだ、勝ち目はある。

 不思議と眠っているお凜の袋を抱いた狸が、頓狂に叫びを上げた。

「わしらの百倍はおるぞ。いけるのか、団兵衛」

「いけるもいけぬも、この青竜刀次第じゃ。まあ見ておれ。それよりそなた、お凜を殺される事あらば、その場でその狸首、斬り落とすからそう覚悟せい」

「んな無茶苦茶な」

 団兵衛の青竜刀は、左腕の青龍に合わせた伊達ではない。海の向こうの大陸で、数千年の古来より血を吸い続けた、その「殺戮神」たる威力が気に入っているだけだった。大柄な団兵衛がそれを振るう時、敵の体はよくて一刀両断、悪くて粉微塵になるのだった。

 左の手首を失ったその傷口は、神宿村から戻る途中の山道で、火を焚き自らこれを焼き潰し、血を失わぬようにしてあった。今もひどく痛んだが、お凜とお民の苦難に比べればそんな痛みなど何ほどの事もない。

「来る。来るっ」

「わしのそばを離れるな。ついて来い」

「え?一体何を」

「いいから走れっ」

 団兵衛は、原の円の中心に向かって突っ込んでくる敵のそのまっただ中に、狸を連れて自らどうと飛び込んだ。中心点にとどまれば、いかな名にし負う青龍使いといえど無駄な討ち死には必定。しかしこうして敵中を走り回り、斬りまくり、また走れば、必ずそこに敵の乱れを生じさせ、わずかな勝機を生むやもしれぬ。

 団兵衛と狸の、「この世の地獄」が始まった。

 

 団兵衛は駆け、無数の敵と袖が振れる度に、青竜刀をどうと旋回させた。両の手で握ればもっと正確に斬れるのにと、今は首を失った左の『青龍』が、いや、手首を斬り落としたあの野盗が恨めしい。

 いや、それはもう過ぎた事。

 生きろ、団兵衛。何としても生き延びろ。お民が来る。それまでの辛抱じゃ。お凜を母御に渡すまで、ぬしは何としても死んではならぬ。天よ、わしは死んではならぬ。必ずお民の来るその時まで、どうぞお守りくだされい。

 右腕を猛烈に旋回させ、敵の一人の胴を斬り飛ばした。その威力は凄まじく、斬られた男の上の半身をよろっていた、その鎧胴までをも両断した。次には原の草を蹴り、跳躍し、手近の敵に青龍を振り下ろした。長丁場になる。力は残しておかねばならぬ。利き腕の腕力が亡くなった時、わしは死ぬ。

 そう思った団兵衛は、大男の体重で、そもそも重い青竜刀を振り下ろすのみとし、その重さで敵を縦半分にした。その度に、死に物狂いでついて来る狸が、ひいと悲鳴を上げた。だが、お凜はまだすやすやと眠っているようだ。

「団兵衛、こりゃあ無茶にもほどがあるっ。死ぬるぞ、死んでしまうぞ」

「わしの心配は無用じゃ。おぬしさえ生き残ればよい。そしてお民に会えればよい。それ以外は、残らずこの原より消し去ってくれるわっ」

 団兵衛は、敢えてごん、と片膝を突き、飛びかかってくる敵を待つ。そしてその瞬間を正確に狙い、青竜刀を下から薙ぎ上げる。するとその敵は、地面に落ちる前に既に木っ端微塵になり、ばらばらに飛び散った。また狸がひいと言うが、団兵衛に構うゆとりなどありはしない。

「お民。まだか。お民っ」

 

 まだ朝焼けかと、団兵衛は敵を薙ぎ討ちながら天を見た。

 斬り合いが始まってから、まだ時はいくらも過ぎておらぬ。美しい朝焼けだ。あの美麗が消え、真夏のぎらつくお天とうが目覚めたら、わしはおそらく保ちはせぬ。この体、この疲れ、この片手戦の不自由さ。それを思えば、決してお天とうが昇ったら保ちはせぬ。

「狸っ」

「何じゃっ」

「お凜は無事かっ」

「何を言う。無事もなにも、わしの胸ですやすやじゃ。なんと豪儀なおなごぞ」

「よいっ。くれぐれも」

 そこまで叫んだその瞬間、油断を生じた団兵衛の、その利き腕の肩に、敵の刃がぐんと突き立てられた。

 痛みより、怒りが先に来た。

「貴様っ」

 団兵衛は、彼の肩に刃を突き立てはしたものの、その『青龍の団兵衛』の鬼の形相に恐れをなして震えている敵兵に、こう言った。

「何故戦の世などに生まれたかっ」

 団兵衛はその男の胴を蹴り飛ばし、すると、同時に吹っ飛んでいく敵につられて刃も肩から離れていき、しかし彼が草に通れ込むその時にはもう、すぐに頭上にのしかかっていた。

「何故にこの地獄に生まれついたか」

 怒りとともに団兵衛は、震える男の首を斬り飛ばした。

 今では既に、団兵衛の利き腕は血まみれで、伝うその血が青竜刀までくだり、切っ先からしたたり落ちる始末だった。

 脇の狸が吠えた。恐ろしさのあまり、吠えでもしないと気が保たない。

「ざまあみろっ。いつも威張りくさりの『青龍』めが。もう片方が『赤龍』になっとるわいっ」

 狸は、団兵衛のその右腕の血まみれを、『赤龍』と皮肉った。団兵衛は、この地獄のただ中で、不思議と感心をし、怒鳴るように笑ったものだ。

「いいぞ狸、その意気じゃっ」

「なにをっ」

「まだまだ悪態つく力が残っておる。それでよいっ。ぬしは見かけによらず余程しぶとい。それでよいっ」

「ぬかせっ。おぬしのせいで、わしは下手をすれば『子守』のままで討ち死にじゃ。そのようにみっともない討ち死になぞあるもんかいっ」

「死にはせん。お民が来る。必ず来る。来れば天はお民を見放さぬ。ならば赤子は必ず生き延びる。故におぬしは死にはせん」

「うそを言うなっ。わしが死んでも赤子のみが生き残り、そこに母御が来るかもしれぬ」

「やもしれぬ」

「やっぱり死ぬるではないかっ。この大うそつきめがっ」

「敵が来るぞっ。気を抜くでないっ」

 団兵衛にさんざんに暴れられ、輪を乱し、一時は潰乱したかに見えた敵兵どもが、朝焼けを浴びながら体勢を立て直し、再び一気に襲いきた。ずいぶんと数は減ったものの、それでもまだゆうに七、八十はいる。 

 

 それから四半刻もの長い長い間。

 団兵衛は、斬り、駆け、殺し続けた。狸は、駆け、避け、悪態をつき続けた。お凜は眠り、眠り、眠り続けた。

 ある時など、乱戦の中の団兵衛は、こう叫んだものだ。

「ええいっ。やはり片腕では手ぬるいわっ」

 手首のない、しかし焼いて固めた腕の先を、団兵衛はまるで棍棒の如く使い、敵の顔面に叩きつけた。大男の拳なき拳が、敵の顔を向こう側まで突き抜けた。

 そうして大男団兵衛と小男狸は、何としてもとお民を待ち、何としてもとお凜を守り続けた。

 しかし朝焼けは無情に去り、真夏のお天とうが小憎らしくも顔を出した。

 陽光は原をじりじりと照らし、森から一斉に蝉時雨が湧き、草は一望に陽炎立ちし始めた。

 暑い。

 この暑さは何としても避けたかったのじゃが。団兵衛はそう思い、夏の陽光に自然と奪われる力を惜しみつつ、しかし青竜刀と「生棍棒」を振るいに振るった。お陰で敵はようやく十近くまで減ったものの、それでもまだ十はいる。

 狸を連れて駆けながら、そして敵を斬りながら、団兵衛は天に向かって、その暑さの主に向かって吠えた。吠えずにはいられなかった。

「天よ、その白き円に耳あらば聞くがよい。何故この世じゃ。何故この戦の地獄世じゃ」

 天は何も答えない。そんな事は最初から百も承知。しかし団兵衛は吠え続けた。襲いくる敵の相手をしつつ、である。その豪、恐るべしと、隣の狸は思ったものだ。

「わしらは構わぬ。侍の家に生まれたからにはこれが生きる道。戦とあれば戦うのみ。ただひたすらに敵を殺しに殺すのみ。じゃが」

 答えない天に体の力をどんどん奪われながら、それでも団兵衛の悪口雑言は止まらない。

「お民に何の罪がある。お凜に何の生まれた罪がある。お民は『民』ぞ。その名の通り『民』なのだぞ。そんなに我ら侍の血を吸いたくば、海の彼方に孤島を作れ。この原を大海のただ中に持ってゆけ。我らのみが殺し合えるように、人里離れた海に戦場を作ればよい。『人里』とは、人が住み、営み、生きてこその里ぞ。人を殺し、人が殺されるための里など断じてあってはならぬっ」

 「青龍の団兵衛」は、いつもそういった悲しみを胸に秘めている侍だった。

 戦国の世の理不尽に異を唱え、黄泉の力によりて、この血にまみれた地上を清め、自ら戦の世を終わらせたいと、想いをこめて彫ったのだ。左腕のあの青龍を。天の使いたる青龍が、どうぞこの地獄を掃き清めてくださるようにと。

「これで仕舞いにせいっ。お民が来たら仕舞いにせいっ。もうこれ以上、人死にはたくさんじゃっ。聞こえているのか、天よっ。わかっているのか、天よっ」

 叫びながら青竜刀を振るうと、ようやく五人に減った敵のそのうちの、一人が体半分に分かれて草に倒れた。

 残るは四人。

 どうしたお民、わしの力は既にもう……。

「狸、生きておるか」

「おうっ。奇跡のようじゃ、生きておる」

「ぬしではないわ。お凜は生きているか」

「けっ。生きとるわいっ。わしを誰じゃと思うとる。赤子一人も守れずして、何が足軽か」

「上等じゃ」

 団兵衛は、ほとんど息も出来ぬほど疲れ切っていた。それでもなお、残り四人に呼ばわった。

「潮時じゃ。決着をつける。覚悟はよいな」

 敵の四人も疲労困憊、それでもその目に意志固く、揃ってどっと刀を構えてきた。

「参る」

 団兵衛が草を思い切り蹴り、四人まとめて躍りかかったその時だった。

「奥村様っ。団兵衛様はっ」

 原の彼方から、若い女の声が轟いた。会った事などないにも関わらず、団兵衛にはその声の主が瞬時にわかった。

「来たかっ。お民っ」

「はいっ。ここにっ。お民にございますっ。お凜は!お凜は!」

「無事じゃ!」

 団兵衛のみならず、狸もまた、嬉しさのあまり同時に叫んだ。

 が、お民に罪はなく、団兵衛にしくじりもなく、狸に非がなかったにも関わらず、その一瞬の間が災いし、敵の四人の刃が、団兵衛の胴に深く差し込まれた。

「団兵衛っ」

 狸が叫び、お民は原を横切り死に物狂いでこちらに向かって走りつつ、しかし団兵衛はまだまだ諦めない。

 真っ黒な濃い髭を振るわせて、団兵衛は叫んだものだ。

「まだじゃっ。お民にお凜を手渡すその時までは、まだなのじゃっ。貴様ら全員、母娘に指の一本も振れさせはせぬっ」

 自分が殺られれば狸も殺られる。二人が死ねばお民は必ず犯され、そして殺される。せっかく生き残ったお凜もまた、わずか二ヶ月の生を閉じてしまう。四人が赤子などに構うはずもなく、殺すか捨てるか、それは目に見えている。

 団兵衛は、猛烈な速度で近づいてくるお民の草の足音を聞きながら、これまでで最大級の、全身の血管が破裂しても構わぬという勢いの、渾身の青竜刀をごうと振るった。

 団兵衛に白兵し、間近に突っ立って勝利を確信していた四人はたまらない。

 なまじの至近距離に逃げ場はなく、刀を抜いて逃げる暇すらない。

 唸り来た青竜刀が、稲妻のような横一閃で、四人の首を直線移動で全て斬り飛ばした。

 そしてその豪の男は青竜刀を草に捨て、刺さった四本の刃を自らの「赤龍の右腕」で引き抜いた。

 お民が叫びながら、泣きながら駆け寄った時、団兵衛には既に三途が見え始めていた。

 だが、お民の泣き顔もまた、はっきりと見えていた。

「奥村様。これを。これをっ」

 お民は泣きながら、懐から取り出した包みを急いで解き、団兵衛が神宿村に残してきた、あの「青龍の首」を取り出した。

 お民が泣きながらそうして草の上に膝を折った時、倒れた団兵衛は笑って言った。

「そのような気味の悪い青龍より、お凜を抱いてあげなさい」

 はっとしたお民は「青龍の首」を草に放り出し、狸が布から取り出した、お凜を見た。

 お凜は初めて目を覚まし、ぎらぎらとしたお天とうさんを浴びながら、大声で、元気に、泣き始めた。三人が三人とも、その泣き声に、この世のものとも思えぬ歓喜を感じた。

「お凜。生きてたね。お凜っ」

 狸から、元気に泣き叫ぶお凜を受け取ったお民は、号泣しながらその赤子を抱きしめた。

 三途の向こうを眺めながら、団兵衛が呟いた。

「狸」

「ここにいる」

 涙が止まらない狸は、いつになく真面目にそう答えた。

「首をくれ。青龍の首をくれ」

「ああ」

 草むらに転がっている「青龍の首」を、狸はうやうやしく拾い上げ、団兵衛のあの生棍棒の先に添えてやった。きちんとした青龍が出来上がった。

 泣きながらお凜を抱くお民に、団兵衛は優しく言った。

「うそではなかったであろう。見よ、わしは怪しき者にあらず。刺青がぴたりと合うか否か、確かめるがよい」

 お民は首をぶんぶんと横に振り、団兵衛に言った。

「見るまでもありません。わかります。あたしにはようくわかります。あなたは奥村団兵衛様。お凜を助けて下さった、『青龍の団兵衛様』にまちがいございません」

 彼女は何故か、一目彼を見ただけで、それが『青龍の団兵衛』だと、そのあだ名を言い当てた。団兵衛は満足した。この若き母御は賢い。よいおなごじゃ。これなら何とかなる。必ず母娘はこの世を生きる。そしてお凜は次の世に育つ。その時、必ず戦なき世であるよう。頼むぞ、天よ。必ず、頼むぞ。

 団兵衛は静かに、さっきよりももっと優しく囁いた。

「狸」

「なんじゃ」

 狸には団兵衛がもうすぐ三途のほとりに着くのがわかっていて、止まらぬ涙を拭き拭きそう答えるのが精一杯だった。

「おぬし、子はおらなんだな」

「ああ。女房には励んでおるんじゃが。戦、戦で忙しゅうての。それが何じゃ」

「お凜をおぬしの女房に預ける。無論お民もじゃ。子にしろとは言わぬ。二人の面倒を、頼む」

「承知じゃ。任せておけ」

 お民はびっくりして団兵衛に言った。

「でも、それじゃあ……」

「『悪い』と申すか」

「はい」

「何を申す。その方ども母娘が死んでしまっては、わしが阿呆になる。その方が余程『悪い』。この狸の女房はよく出来たおなごじゃ。頼れ。わしの死を惜しんでくれるのなら、その証に必ず頼れ。神宿村に戻り、皆を丁重に葬り、それからこの狸についていけ。必ずじゃ。必ずそうせい。狸もよいな、必ずそうせい。せずば化けて出て貴様を呪い殺す。よいな、『化けられぬ狸』よ」

「承知じゃ。必ず」

「団兵衛様。ありがとうございます」

 団兵衛はお民に、この世の最後の、優しい言葉をかけてやった。

「お凜が泣いておる。乳をおやりなさい」

「はい」

 そうして団兵衛は三途の川を渡り、お民は泣きながら感謝しながらお凜に乳をやり、狸は草むらに散乱した武具をほどほどに集め、お民との旅の支度に取りかかった。

 お天とうさんは、三人を照らすばかりで、やはり何も言いはしなかった。

 

 その数日後の事だった。

 お凜を連れ、狸に守られ、神宿村に戻り、夫蔵六と村の皆を埋葬したお民は、いくつもの山を越え、狸の家まで連れていってもらった。

 お凜を抱いたお民が、狸とともにその家の前に立った時。

 そこには小さな畑があり、様々な野菜がなっていた。そして狸の女房が、畑いじりでかがめていた腰を上げ、夫とお民とお凜を見、優しく微笑んだ。

「おや、お帰りなさりませ。こたびの戦では何と呼ばれたの?」

 狸は仏頂面で「『狸』じゃ」と答えた。

 女房は朗らかに笑いながら、お民を見た。

「先に届いた文で知っています。お民ちゃんね」

「はい。よろしくお願いします」

「この子はお凜ちゃん。まあ、元気ないい子。よしよしよし」

 女房はお凜の頬を愛しげに一度つつき、狸に言った。

「『猿』だの『狸』だの、お前様もお忙しい事で」

「お館様の『猿』はまだましじゃ。よりによって『狸』とは失敬な」

「団兵衛殿でしょ?あのお方はご聡明。お亡くなりあそばすその前に、あなた様の真を突いたのです。南無阿弥陀仏」

 団兵衛の為に女房が祈っていると、仏頂面のままの狸が聞き返した。

「何がじゃ」

「『人を化かすほど頭がおよろしい』という事です」

 本名を木下藤吉郎というその小男は、ちょっと感心してぶつぶつ言った。

「なるほど。『化けては出られぬが、化かす才覚はある』とな。ふむ」

 その、とぼけた夫婦の会話にぽかんとしていたお民に、女房が如来の如く微笑んだ。

「おねと申します。生きましょうね。一緒に。いつまでも」

 お民も微笑み、ようやく真から安心し、初めてお天とうさんへの呪いの気持ちが消え去った。

 お凜を抱いたお民は、彼女に力強く答えたものだ。

「はい。生きます。そしてお凜を育てます。戦なき世に送り出すために」