秋から年始にかけて、宮城谷昌光氏の「新三河物語」や三谷幸喜氏の「清州会議」など、愛知の戦国武将がでてくる本をいくつか読んでいて、徳川家の祖、松平家の菩提寺である大樹寺へはどうしても行きたかったのです!
宮城谷さんの本を読んでいると、松平元康(徳川家康)よりも、その祖父である松平清康公の方がダントツ格好いいんだなぁ。
1か所だけではなんなので、近くにある伊賀八幡宮へも行きました。
ハスの花が咲く季節になると、この神社前の池がとても綺麗でよくTVにも出ますが、冬は枯れていて寂しい風景でした。
伊賀八幡宮は、松平四代親忠(ちかただ)公が、松平家〔徳川家の祖〕の子孫繁栄の守護神 『氏の神』として創建なされた神社。
徳川三代将軍の家光が、岡崎の伝来の氏神守護神である伊賀八幡宮に、祖父である東照大権現〔徳川家康公〕をあわせて祀り、これにより伊賀八幡宮は、日光・久能山とともに、将軍みずから祀ることを定めた、数少ない東照宮の一つとなったそうです。
御祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現(徳川家康公)です。
拝殿。普段は柵の前までしか行けないようです。
正式参拝すれば中へいけるということなのかしら?
さざれ石がありましたが、
よく見ると、お金がたくさん置かれています・・・。
人がほとんどいなくてちょっと寂しかった・・・。
次、大樹寺へ!!
やってきました。
家康が、「亡骸は久能山に、葬儀は芝の増上寺で、位牌は大樹寺へ」と遺言して位牌がおさめられた、大樹寺です。
宝物拝観もしてきました。 (大人:400円)
ここから先は重要文化財があるので撮影禁止。
写真右の柱のところに金色で「厭離穢土」(えんりえど)と書かれてある、厭だけが見えてると思います。
左側の柱には「欣求浄土」(ごんぐじょうど)と書かれていました。
「厭離穢土欣求浄土」は家康の座右の銘、旗印としても使われていた言葉ですね。
重要文化財の襖絵は取り外して、気温・湿度管理された部屋に保存されていました。
身分の低い武士の控えの間の絵は身近な花で、身分の高い武士の控えの間になるほど絵のランクも上がっていくのが面白かった。
そして、松平八代、徳川歴代将軍の位牌は本人の亡くなった時の等身大で作成されていて興味深かったです。幼くして亡くなった人はほんとに数十センチの高さの位牌になっている。
徳川慶喜は位牌はたしかなかったけど写真が飾ってありました。もうそのころには写真が日本に入ってきてたんだね。
そして、外の廟所へ。
テレビでも何度も紹介されていたところです。
普通に檀家さんの墓地があって、その奥にあります。
そう、奥にみえる門の向こう側に。
門の手前数メートルのところにあった石碑?
拡大すると文字がゆがんでみえないなぁ。
松平八代墓。
初代:親氏
二代:康親
三代:信光
四代:親忠
五代:長親
六代:信忠
七代:清康
八代:広忠
全部映るようにすみっこからパシャリ。
初代の方は石が小さいのは、あとから墓を移祭したためでしょうね。
こちらが清康公の墓。
ちなみに美男子だったそうです、清康様
家康公の墓もありました。
境内には多宝塔もあります。(こちらも重要文化財)
一層は方形、二層は円形で、室町末期にできたものです。
1535年、松平清康公により建立されました。屋根のラインとか、美しいです。
あと、もう一つ有名なのが、本堂から山門をみると、今はなき岡崎城を望めるよう伽藍が配置されているというもの。
本堂側から山門をみたところ。
ちょっと天気が悪いし逆光なのでなかなかうまく撮れませんでしたが、
門の向こうに道路があって、そのまた向こうに門があるのがみえるでしょうか。
道路の向こうは現在大樹寺小学校(だっけ?)があるのですが、
そこの校庭を突き抜けて向こう側にまた門があります。
その門の中から向こうを真っ直ぐみると、昔は岡崎城が見えたそうです。
上の写真は山門を出たところから小学校側を撮ったもの。
振り返ると、
山門の向こうに本堂がみえます。
今回もらってきたご朱印。
左が大樹寺、右が伊賀八幡宮。
通常、神社のご朱印ってシンプルなものが多いのですが、伊賀八幡宮は結構華やかです。字も大きいし。
大樹寺の方は、「厭離穢土欣求浄土」が書かれています。
ちなみにこの言葉、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺され、家康が自身も織田氏に倒される身の危険を感じ大樹寺に逃れたとき、大樹寺の上人から諭された言葉だそうです。戦乱の世を住みよい浄土にするのがお前の役目だ、という具合に。
伊賀八幡宮のHP
http://www.igahachimanguu.com/
大樹寺のHP
http://home1.catvmics.ne.jp/~daijuji/

