明治4年7月18日(1871年9月2日)に、学術・教育を担当する
官庁として東京神田の湯島聖堂内(昌平坂学問所跡)に設立さ
れ、初代文部卿には大木喬任が任命されて近代的な教育制度・
学制・師範学校の導入にあたった。
このことから明治の一時期、湯島聖堂構内・昌平黌跡には、文部省、
東京師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学)及びその附
属学校(現在の筑波大学附属小学校及び筑波大学附属中学校・
高等学校)、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)及びその
附属学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学
附属高等学校)、国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科
学博物館)が同居していた。
戦前まで、旧内務省が各道府県学務部を統轄していたが、1952年
(昭和27年)に、義務教育費国庫負担法成立に伴い、教員給与の3分
の1を国が負担することで、次いで1956年(昭和31年)に、地方教育行
政の組織及び運営に関する法律成立に伴い、教育委員会委員の任
命権を国が動かすことができるようになったため、小・中・高等学校の
監督権を獲得してきた。
なお、文部省という名の部署は、奈良時代中期にも存在した。当時、
藤原仲麻呂が進めた官職の唐風改称により、それまでの「式部省」を
唐風の「文部省」へ改称したのである。しかし、仲麻呂はほどなく失脚
したため、文部省の名は6年ほどで式部省に戻された。
*ウキペデイア