もう半世紀も前になる。小学校4年のとき、ソフトボールのクラスマッチで員数合わせで狩りだされたのが発端である。ライトで9番バッターであった。7回の裏、1点リードの最後の守り、2死満塁で一打逆転サヨナラ負けの場面で相手4番バッターのライトライナーをキャッチして勝利した。
身体の真っ正面に飛んできたライナーである。私はただ両手をだして、バッシと捕球した。これが初めての捕球であった。相手の歓声は悲鳴に変わり、味方の悲鳴は歓声に変わった。身体の正面でなければ捕れなかったであろう。当時は、裸足で素手であった。
それ以来、私は「野球が上手い、野球が上手い」とおだてられた。私もその気になって豚皮の安いグラブを買ってもらい、昼休みや放課後ソフトをするようになった。野球部の部長の目にとまり、軟式野球部に入った。それからは野球第一の人生が始まった。
家から5分の八幡製鉄大谷球場に行き、八幡製鉄の試合や練習をよく観た。八幡製鉄が福嶋投手、井原3塁手などの活躍で都市対抗野球で優勝し、企業城下町八幡市は盛り上がった。それから間もなくして、福岡の西鉄ライオンズが常勝ジャイアンツを三年連続して破り日本一に輝いた。野性味あふれた野武士軍団である。1番センター高倉、2番ショート豊田、3番サード中西、4番ライト大下、5番レフト関口、6番ファースト河野、7番セカンド仰木、8番キャッチャー和田、9番ピッチャー稲尾という不動のメンバーである。ピチャーは河村、西村、島原、大津と多士済々であった。
高校1年まで硬式野球をやっていたが、肩を痛め止めた。それまで勉強はほとんどしたことのない野球少年であった。
西鉄ライオンズの黄金時代、物見遊山で来日する大リーグ相手にまったく歯が立たなかった日本人選手を見ているので、現在のイチロー、ダルビッシュ、松井秀、黒田、松坂の活躍は夢のようで、MLBの中継はいつも一喜一憂しながら観ている。
野球が縁で、サッカー、ラグビー、駅伝、マラソンその他スポーツは何でも大好きである。