TVでやっていた
「林修先生が、『勉強なんてくそくらえ』メンバーにやる気を出させることができるか?」という企画
私もアルバイトとして塾講師の経験があるので、興味深く見ていたのですが、面白かったです。
林先生が「じゃあ、傍線Aを見てくれるかな」というと、「せんせー、ボーセンエーって何ですか?」
「どう思う?」「あ、何がですか?」
明らかに、彼の話のスピードおよび語彙がミスマッチ・・・でも、後半、林先生の「現代文の持つ力を信じる気持ち」がビシビシ伝わってきて、とても共感できました。
更に面白かったのは、同じ時間、同じ教室で同じ講師から話を聞いていた生徒たちが、授業後別室で、個別に感想を述べていくのですが、何かをつかみ取った人と、結局何もつかむことができなかった人がいるんですよね。
勿論、アプローチが一つである以上、受け手に響く響かないはあると思うのですが、受け手の心構えの差「何か面白いことが聞けるかもしれない可能性」を単純に信じることができたかどうか、でもあるんだと思いました。
生徒から出た言葉で、すごく気になった言葉
―それを勉強して、役に立つと思えない
それってよく聞くけれど、勉強する前に役に立つかを考えること自体に意味がない、と思うんです。
例えば、
森を歩いていて、変な虫にかまれてしまって、ひどく腫れたとしますよね。
効く草を知っている人は、それを摘んでくることができ、少し早く痛みを抑えることができる。
知らない人は、当然のように痛めながら病院に行く。
勿論、草を知っていても生えていないこともあるでしょうし、そもそもその虫にかまれることはないかもしれない。でも問題は、効く草があることを知らない人は、早く治ったかもしれないことを知らない。だから、知らない人が、役立つか否かを論じることはできない。
知識や経験というのは、役立つ機会が来るかもしれない、その時に役立てることができるかもしれない、そういうものだとおもいます。だけど、そういうのが積み重なって、豊かな人格を形成していくんです。
私も、学生の頃、勉強なんて最低限しかしたくないと思っていたし、「費用対効果」なんていっぱしに考えて、寝て過ごした授業もいっぱいあります。
でも、最近思うんです。
知識や経験の引き出しは多い方がいい、その多さがハレーションを起こして、すごい効果を生んでいくものなんだと。だから今、私にできるのは、手間を惜しむことなく、手持ちのタンス増設する気持ちで、引き出しを増やしていくこと、それだけなんですよね。
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