雲が重苦しく 空に低くかかった、もの憂”うい”、 暗い、
寂寞”せきばく”とした秋の日を一日中、

私はただ一人馬にまたがって 妙にもの淋さびしい地方を通りすぎて行った。
そして黄昏たそがれの影があたりに迫ってくるころ、ようやく憂鬱”ゆううつ”な
アッシャー家の見えるところへまで来たのであった。



どうしてなのかは知らない。

が、その建物を最初にちらと見たとたんに 堪えがたい憂愁の情が
心にしみわたった。

「…堪えがたい、」と私は言う。

なぜならその感情は 荒涼とした、 あるいはもの凄すごい自然の
もっとも峻厳”しゅんげん”な姿にたいするときでさえも常に感ずる、
…あの詩的な…なかば心地よい情趣によって、
少しもやわらげられなかったからである。私は眼めの前の風景を眺ながめた。


ただの家と その邸内の単純な景色を…荒れはてた壁を…

眼のような、「ぽかっ」と 開いた窓を 少しばかり生い繁しげった菅草”すげぐさ”を
四、五本の枯れた樹々きぎの白い幹を眺めた。






アッシャー家を 見つめているうちに このように自分の心を
うち沈ませたものはなんだろう? 

それはまったく解きがたい神秘であった。

それからまた私は もの思いに沈んでいるとき自分に
群がりよってくる影のようないろいろの妄想にうち勝つこともできなかった。

で、そこにはたしかに 我々をこんなにも感動させる力を持った
まことに単純な自然物象の結合があるのだが、その力を分析することは
我々の知力ではとてもかなわないのだ、という頼りない結論に
落ちるより仕方なかった。また、この景色の個々の事物の
つまりこの画面のこまごましたものの、配置をただ変えるだけで、
もの悲しい印象を人に与える力を少なくするか、あるいはきっと
すっかり無くなすのではあるまいか、と私は考えた。

そこでこの考えにしたがって、この家のそばに静かな光をたたえている
黒い無気味な沼のけわしい崖縁”がけぶち”に馬を近づけ
灰色の菅草や、うす気味のわるい樹の幹や うつろな眼のような窓などの、
水面にうつっている倒影を見下ろした。

が、やはり前よりももっとぞっとして身ぶるいするばかりであった。

そのくせ、この陰鬱な屋敷に 私は二、三週間滞在しようとしているのである。



エドガー・アラン・ポー アッシャー家の崩壊より~


※本文の 著作権は切れてます。
 


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