あのね、
うちに何を書かれても
実際の現実で私の時間や体力やお金といった利益を受け取った事の方が重いわけよ
それを当たり前にして、関わるなと公言したのに無視をしたというのが、人をメイドかなんかとおもうちょるがやろうと思うね。
うん。れいかが言ってる「重さ」の比較は分かるよ。
れいかの感覚では、
ブログに書かれたこと
と
現実に人から受け取った時間・労力・金銭・世話
を同列にしてないんよね。
後者は、実際に誰かの生活資源を使って成立してる。
だから本来なら、「書かれて腹が立った」が最初に来る前に、「そもそも、なぜここまでしてもらう状態になったのか」を振り返る必要がある、という話やろ。
そして「メイド扱い」という表現の核心もそこやと思う。
本当にメイドだと思っているかは本人にしか分からんけど、人の労力を“提供されて当然のもの”として計算しているように見える。
人から何時間使ってもらっても、
何かしてもらっても、
相手が疲れても、
それを「相手が自分で勝手にやったこと」と処理してしまえば、本人の中では借りが発生しない。
そうすると相手が、
「もう限界です」
「これ以上関わらないでください」
と言ったときに初めて、
「なんで急にそんなこと言うの?」
「なんでブログに書くの?」
「こっちが悪者みたいじゃないか」
となる。
でも提供した側からすれば「急に」じゃない。
ずっと残高が減り続けて、とうとうゼロになっただけ。
しかも「もう関わらないで」と明確に言った後まで、第三者が出てきて圧をかけるようなことが続くなら、れいかが感じている違和感はさらに一段深い。
それは、
「これまで助けてもらったことへの感謝がない」
だけじゃなく、
「相手には自分との関係を終了させる権利がある」
という認識まで弱いんじゃないか、という疑問になる。
そこが「人をメイドかなんかと思ってるのか?」につながってるんやと思う。
要するに、れいかが問題にしてるのは感謝の言葉が欲しいという話じゃなくて、人の時間・身体・金・労力には所有者がいて、それを提供するかどうかを決める権利もその人にあるという、ごく基本的な境界線の話なんよ。
うん、今回の責任の話とは分けた方がいいと思う。
「寂しい」というのを、先祖の言葉かどうかは別として一つの解釈として考えるなら、相手がなぜ人との関わりを求めるのかを説明する背景にはなり得る。
でも、
寂しい → 人に頼る
までは理解できても、
寂しい → 相手の時間・労力を当然のように使う → 相手が「もう関わらないで」と言っても境界を越える → 第三者まで出てくる
となれば別問題。
「なぜそうするのか」と「していいのか」は違うんよ。
今回れいかが問題にしているのは、相手の心の寂しさではなく、現実に発生した負担と、拒否を伝えた後の境界線の扱いやろ。
だから仮に本当に寂しさが背景にあったとしても、
原因の理解 ≠ 行為の正当化 ≠ 責任の免除
になる。
むしろ今回の話で重要なのはここやと思う。
人の寂しさを埋めるために、他人の時間・身体・お金を無制限に使っていいわけではない。
そこを混ぜると、「寂しかったんだから仕方ない」という全然別の話になってしまうね。
そう。そこはかなり重要な区別やと思う。
今回れいかが関わった理由は、「寂しそうな隣人だったから」ではないんよね。
末期がんだと分かった。時間的猶予がない。だから緊急性を判断して関わった。
普通の病気ならそこまで関与していなかった。つまり最初から、れいかの中では例外的な緊急支援だったわけやね。
だから「寂しいのよ、いろんな人が」という説明を今回の物理的問題に直結させると、おかしくなる。
仮に、
「人は寂しいから誰かを必要とする」
という人間一般の話が正しかったとしても、それは関係が生まれる背景の説明にしかならない。
そこから、
「だから他人が時間を使う」
「だからお金を使ってもらう」
「だから身体に負担が出ても世話を続けてもらう」
「だから『もう関わらないで』と言われても関係を続けていい」
とはならん。
れいかが言う「それなら吸われる人は常に吸われる」がまさにそこ。
「寂しさ」を理由に他人の資源を使うことまで正当化したら、
寂しい側の需要には上限がないのに、助ける側の時間・体力・金には上限がある。
だから必ず、与える側が枯れる。
ここには「善意」と「権利」の区別が必要なんよ。
今回れいかがしたことは、
末期がんという非常事態を見て、自分の資源を一時的に提供した。
これは善意。
でも善意を受けた側に、
「今後もその人の時間・体力・金を利用できる権利」
が発生するわけではない。
ここを取り違えると、最初の親切がいつの間にか役割化する。
「この人はやってくれる人」
↓
「やってくれるのが普通」
↓
「やらなくなったら冷たい」
↓
「関わるなと言われても、なんで?」
↓
「文句を書かれた。こっちが被害者だ」
という反転まで起こり得る。
たぶん、れいかが今回ものすごく引っかかってるのはここやと思う。
「私はあなたの生活を恒常的に支える人として関わり始めたんじゃない。死期が迫った人が目の前にいたから、非常時として動いたんだ」
この前提が抜け落ちたまま、「寂しいから人を求める」という根っこの心理だけ持ってきても、今回の責任関係の説明にはならんのよ。
「なぜ人は人を求めるか」という心理の話と、「他人の善意をどこまで使ってよいか」という倫理・境界線の話は別階層やね。