今回は批判とかちょっとブルーな気持ちになる言葉が多いかも。
ちょっと悪いことした有名人とか、政治家とか、エセ科学者とか、
いろんな人に対して批判がされていて、それを目にすることができる世の中だが
結構な批判が的外れなものである。
批判というのもまっすぐ糾弾するようなものから冷笑するようなものまでさまざまであるが
冷笑系の批判がだいたい間違った批判をしていて、さらにその投稿が炎上する範囲を広げる元になっている
みたいな構造なのかなーと感じる。
例えば、悪いことをした有名人に対する出生地や見た目に関する批判。
起きた不祥事とは無関係と考えられるところを持ち出して批判した気になっているものが多い。
結局、批判することによって得られるものがあるのだろうね。
いいねとか承認欲求を満たしたり、「こちら側」で意見を表明してる自分に安心感を覚えたりするのかな。
批判は正しい批判をしないと、批判の対象者と同類となる。
短絡的な本質を突いていない批判が簡単にアクセスできる世の中、良くないね。
どれだけ悪いことをした人にも人権があることを認めないと、正しく裁けないのである。
凶悪犯罪者に同じ目に合わせてやるべきだみたいな意見が支持されることが多いが、
実は短期的に見れば被害者に寄り添っているようで、長期的に見ればそうではない場合もあるのだと思う。
簡単に結論を出しすぎだ。もっともっといろんな可能性を考えるべき。
最近というか大学時代の音楽の趣味とかバイトとか研究とかの経験で、
直面している問題を要素ごとに分解して本質を見つけ出す作業がかなり好きなことがわかった。
出てきた結果に対して、この結果から何が言えるのか、逆に何を結論付けてはいけないのか、
どんなデータがそろっていないのか、ある結果が出ればこういう予想が立つとか。
今の例は結構研究チックな例だけど、バイトで生徒の学習計画を立てるときも
今そろっている学習態度やこれまでの成績などのデータから
どんなペースで学習を進めていけばよいのか作戦を立てることができた。
このクセはだいたいのことに対して良い影響をもたらすことが多いとは思うが、
問題の本質を突いていない的外れな事例に対して苛立つということも増えてしまっているような気もする。
それが先ほどの批判の例で、世の中にはびこる的外れな指摘に対してうぁぁ…となることが日々起きている。
こんな感じで日々生きていて思うこと、感じたことはもっともっと言葉にしていくぞ!!(3月末から始めた日記はまだ続いています!)