偶然から熊本に立ち寄る機会を得た。地震の影響が心配されたが、熊本城はその雄姿を見せてくれていた。その姿に感銘を覚えた。見に来てよかった。次に隠れキリシタン集落の一つ「﨑津集落」に向かう。熊本から集落まで4時間50分。長時間を要した。所謂「隠れキリシタン」が世界遺産として評価されることに異を唱えるつもりは毛頭ない。が、相方とつらつら話しているうちに、どうして日本では生き残れたのか?の問いに答えていたのが「ブラタモリ」だったことを思い出す。「隠れキリシタン」の彼らが細々と工夫を凝らしたことは紛れもない。が、一方で役人側も「宗門心得違」的な処理をしなければ都合が悪かったことが理由の一つにもなっていることが語られていた。この観点がいろいろな意味で興味深い。宗教と政治という最もデリケートな事態が官僚たちの「自己都合」(に等しい理由)で「安堵」。どれだけ日本はある意味で「平和」であったかの象徴的事例である。穿り返されると自分たちの立場がないので「宗門心得違の輩だった」で済ます。一方でそれだけ不安があったのだろう。織田信長の「石山本願寺」との11年に及ぶ戦闘状態。一向一揆への恐怖心はいかばかりだったか。同時に、日本の「武士」集団は傭兵として南アジアのみならずヨーロッパで活躍していた話もある。であればこそ、イエズス会がもし万一中米を侵略した如く殺戮を繰り返したならば、当時世界最強の刺客集団である日本の「武士」が許さなかっただろうし、穏やかな侵攻が進みつつあったのが江戸時代前夜だったのだろう。国際政治的国際政治的な話だが、色々な力関係によって事態は動いていく。A+B=Cではない。これを見定めることが学問であり、勉強であろう。いい年こいてまた一つ賢くなったように思われる。昔の通り歴史が残っていることが勉強であり財産である。

「南風屋」のお母さんありがとうございました。月桃茶、ミカン、そしてイチジク揚げパン美味しくいただきました。

 

 

 

 

 

 

 

歴史は為政者の勝者の論理で終始している。日本の歴史をみる。明治以降の歴史観は徳川の歴史を些か蹂躙のきらいがある。維新政府はかなりの浪費をしてようやく船出をしている。が、思うに、記述された勝者は誰がために勝者になるのか。

 

 

 

そもそも勝者とは何か。勝者の論理とは何か。そもそも勝者の論理性とは何か。

 

 

 

 

秀吉の伴天連追放令の根底に人身売買があったことを中学以降の日本史で教えないこと自身が問題だが。集落の佇まいは古き日本の匂い(香り)を残している。