『今度は末代動かぬ世にするのざから、今までの様な宗教や教えの集団にしてはならんぞ、人を集めるばかりが能ではないぞ、人も集めばならず、六ケ敷い道(おしへ)ぞ』※六ケ敷い=むつかしい=むずかしい

☝これ、この当時にこう言われても。結局集団になってるのが人間。

人を集めるばかりが能でない理由は次の部分で説明してる感じ。

 

『縁ある人は早く集めて呉れよ、縁なき人いくら集めても何もならんぞ、縁ある人を見分けてくれよ。』

☝ここでいう「縁ある」はいろんな意味でとれそう。

縁ある人=直線的にものを考えず、和=円=縁な感じで丸くなってる人

縁ある人=ワンネスに目覚めている人、目覚めようとしている人。

縁ある人=本当の意味でのポジティブ(=ネガティブとのバランスが取れる人)な人。

円は線やけど、束になると球になりそうだな。だからかな???

 

『顔は神の臣民でも心は外国身魂ぞ、顔は外国人でも身魂は神の臣民あるぞ。』

☝これも、いろんな解釈のバリエーションが生れる。

地球内レベルで読み取るとハーフのことを言っていたりする可能性。

その人間の容姿とは関係のない心持ちの話をしている可能性。

 

外国を地球外とすると、スターウォーズで出て来るキャラクターが思い浮かぶ。宇宙人にもいろいろいるよね…。と。

 

見分けるのはなるほど。そうとう六ケ敷いですな。

 

『やりかけた戦ぞ、とことんまで行かねば納まらん。』

☝これも、単純にとらえてしまうと当時していた第二次世界大戦のことを言っているようにもとれるんだけど。

 

最初の神示(第一帖(一))で前置きしているように『そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終わらぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。』

と前置きしている関係で。

 

満期がおとずれるまではつづく方の、統合にむけた下ごしらえの方の戦いのことも示唆しているんではないだろうか。

 

☟満期の説明はこちらの前半参照

 

『臣民一度は無くなるところまでになるぞ、今のうちにこの神示よく読んでゐて呉れよ。』

☝人は、みんな。必ず1回は死ぬわけだけれど。

肉体がほろんでも、ワンネスに気がついていれば魂は死んだりせずに大元の場所に戻る可能性がある。

 

臣民が、一度は無くなるところまでになるのが、それは、誰もが出会う出口な入り口で、通過儀礼だとすると。無くなったそのあとがあるということが読み取れる。

そのことが、神示をよく読むと理解できるから、あわてないように、何度も同じことをくりかえすことを回避できるように、読んでゐて「自分で選択しなさいよ」ということかな。

 

『九月になったら用意して呉れよ』

☝と、六月の段階で言っている。

九月は秋分だから。種蒔きは→今(六月)読むことで未来を選択することで種蒔きすませろ。かな?

秋は収穫の時期だから、神示で植えた思考でできた自分を体得するってことかな?アセンションに向けて。

 

たしかに、そのような順番を予め言っておいてくださっているなら、天変地異が現象化したとしても、最終テスト・通過儀礼で、その後、身体があっても、なくても。どちらでも特段困ったりしなさそう…。

 

やっぱり、これは、神の錬金術なんだろうな。