「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録される吉野山・高野山・熊野三山を結んだちょうど中央、修験道の聖地「大峯山」の山ふところに天川(てんかわ)村がある。天川という地名は、日本三大弁財天のひとつで、水の神様である「天河大弁財天社」に由来する。四季を通じて豊かな自然に恵まれ、南北朝時代、後醍醐天皇がかくまわれたという史実や伝承も数多く残る。


 村の中心近く、渓谷斜面を利用したこの土地特有の吉野建四階建ての「弥仙館(みせんかん)」が建つ。大峯参りや弁財天信仰の参拝者を泊めた旅籠として創業し、戦後、吉野杉を使って現在の旅館を建てた。クラシックな十室の宿だが、原則五組しか泊めない配慮もあるからだろう、馴染み客が多い。


 利用者に好評なのは料理。鮎の俵巻き、鹿刺し、山菜など地元ならではの品が並ぶ。水がおいしいせいか、ご飯もすこぶるうまい。宿の前は、弁財天奥宮のある弥山(みせん)への登山口となっているため、登山客も泊まりにくる。五キロ圏内には洞川(どろがわ)温泉や円空仏が納められた栃尾観音堂もあり、静かに心を癒すにはぴったりの一軒宿である。


 凛(りん)とした冬は、しし肉を使ったぼたん鍋のおいしい季節。弁財天は芸能の神様でもあり、芸能人やアーティストがこっそりお参りに来ることもあるという。


(2008年1月)


弥仙館


奈良県吉野郡天川村川合267

近鉄吉野線下市口駅よりバスで約50分。

0747・63・0018

http://misenkan.com/


1万円で大満足

 松尾芭蕉の奥の細道に「鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす」と登場する「鳴子温泉郷」。日本に存在する十一の泉質のうち九種の温泉が湧く日本有数の温泉郷で、古くからの湯治場として知られる。


 鳴子温泉駅に近い老舗「鳴子ホテル」では、日によって色が変わる硫黄泉が湧く。源泉は百度に近く、宿の周辺ではもうもうと湯けむりが舞う。湧出した源泉は、水で薄めることなくタンクで冷まされ、湯船に注がれる。温泉が外気にさらされる間に、気温や雨や雪、風によって微妙に変化し、色も七変化するという。


 鳴子ホテルでは、とりわけ冬期間、晴耕雨読に興じる長逗留客も多い。「いつでも湯治!鳴子連泊プラン」を使えば、三泊三万円、四泊四万円、五泊五万円だ。そのうち一泊は夕食がつかないので、町に食べに行く。こじんまりした食堂が田舎らしくて懐かしい。もう一泊は、氷細工のかまくら盛りのお造りをはじめとする会席膳。残りの日は、数々の魚菜が並ぶバイキング料理をいだだく。


 晴れた日には、様々な泉質を味わいに鳴子の湯めぐりに出かけるのがよい。鳴子温泉郷五十軒以上で使える「湯めぐりチケット」を買えば、千二百円で旅館や共同湯の温泉を数か所楽しめる。湯上がりには、お茶請けに鳴子名物「栗だんご」を買って帰りたい。


(2007年12月)


鳴子ホテル


宮城県大崎市鳴子温泉字湯元36

JR陸羽東線鳴子温泉駅より徒歩で約5分。

0229・83・2001

http://www.narukohotel.co.jp/



 善光寺で有名な長野市の北方に、神話時代、天の岩戸が飛来したと伝わる「戸隠山(とがくしやま)」がある。神々しい岩山は、中世より女人禁制の修験道場として徳川家康にも厚く保護された霊場であり、現在は戸隠神社五社の神域となっている。戸隠神社は、九頭龍信仰を中心とした水と農業の神様。周辺には、神社を分祀した三十六の宿坊があり、四月下旬から十一月にかけて多くの戸隠講の参拝客が足を運ぶ。五社のひとつ「宝光社」前に位置する茅葺き屋根の「越志(おし)旅館」はその一軒だ。


 そして、戸隠といえば「そば」。十一月になると、戸隠の宿やそば屋の軒先に「新そばができた」と知らせる「そば玉」が掛けられる。戸隠連峰が薄っすらと雪化粧し、カラマツ林が一面黄色く染まる晩秋は、一年で最も美しい季節のひとつだ。越志旅館でも、石臼びきの粉で打った新そばが宿泊客にふるまわれる。


 十二月から三月までは雪に埋もれる静かな季節。コタツの部屋でのんびり逗留するなじみ客も多い。立派な設備や温泉はなくとも、親せきの家のように寛げ、戸隠そばを毎日楽しめる。アクティブ派なら戸隠スキー場も近い。

 雪が融けると、戸隠古道に散在する三十本の石柱を二・三日かけてめぐり、その彫印の拓本を集印する「古道ウォーカー」も増えてくる。


(2007年11月)


越志旅館

長野県長野市戸隠宝光社2332

JR信越本線・長野新幹線長野駅よりバス約60分、宝光社宮前下車徒歩1分。

026・254・2007

http://www.oshiryokan.com/







 「火の国」熊本の象徴、阿蘇山は、中世には修験道の聖地だった。その名残は、麓の坊中地区の西巌殿寺に残され、毎年四月には「火渡り」儀式が行われる。当時、この地には三十六坊あったが、今では静かな里山そのもの。そのうち一軒の坊の跡地で、地元産の食材を使った料理を提供する宿、「宿房あそ」が営業している。





 古民家を移築した宿で、重厚な柱や梁に目が奪われる。敷地の片隅には十一面観音のお堂が残され、宿を囲む木々は季節ごとの色に染まる。「おなかをすかしてきてくださいね」。農家を兼ねるご主人が予約の際にこう答える理由が、宿泊してみるとわかる。





 炭火の焚かれた囲炉裏の食事処(どころ)でいただくのは、自家製の有機無農薬野菜や米、無添加の味噌を使った手作り料理。溶岩板で焼いていただく肥後牛など、阿蘇の味覚がふんだんにふるまわれる。現在では息子さん夫妻が宿を切り盛りする。到着時に出されるおはぎは母ゆずりの味だ。人情味あふれる熊本弁のご主人も食事の際に一卓ずつまわる。





 なじみ客に支えられ、週末の予約はなかなか取れない。十月は新米の季節。売り切れるまで玄関先に置く玄米が飛ぶように売れる。






 阿蘇のカルデラには清らかな水と湯があちこちで湧く。宿の石切風呂も落ち着くが、坊中温泉「夢の湯」も徒歩十分と近い。





(2007年10月)





宿房あそ




熊本県阿蘇市黒川1076


JR豊肥本線阿蘇駅より徒歩10分。


0967・34・0194


http://www.aso.ne.jp/syukubou-aso/








 国内で十四番目の世界遺産として登録された「石見銀山遺跡とその文化的景観」。銀の積み出し港だったのが「温泉津(ゆのつ)」町だ。国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定される懐かしい町並みに湧く「温泉津温泉」は、温泉地として初めて世界遺産となった。


 趣深い湯宿が肩を寄せ合う小さな温泉街に、少し珍しい形態の宿、「旅館吉田屋」がある。働くのは全国から集まった若者たち。営業日は、金・土・日の三泊のみだ。リーダーは、コミュニティビジネスを学び、若女将としてやってきた山根多恵さん。この宿では、月曜から木曜は地域活動の日として全員が地域に散らばる。そこで若者たちは、農地を耕し、竹やぶを伐採し、野菜、竹細工、陶器など独自の生産活動に従事しているのだ。


 旅館の食膳には、地域の農家で採れた野菜など地物を使った料理が並ぶ。大正時代に建てられた木造建築なので多少の不便さは否めないが、若者のはつらつとしたサービスが頼もしい。日によりお茶の葉や柚子が浮かぶ内湯もあるが、効能豊かで名高い温泉が注がれる「外湯」へは必ず入りに行きたい。


 地域を作るのは「よそ者、若者、ばか者」という名言がある。少子化の時代、全国には後継者難で悩む宿も少なくないが、旅館吉田屋は、若者たちの手でよみがえりつつある。


(2007年9月)


旅館吉田屋


島根県大田市温泉津町温泉津イ707-1

JR山陰本線温泉津駅よりバスで約5分。

0855・65・2014

http://www.lets.gr.jp/yoshidaya/



 東京都心からわずか二時間。真夏でも涼しい雲上の楽園がある。


 それは、標高約九百メートルの「御岳山(みたけさん)」。御岳山頂には、鎌倉武将の信仰を集めた関東随一の霊場「武蔵御嶽神社」がある。今でも全国から御岳講の人たちの参拝が絶えず、山上の参道には神社の御師(おし)が営む宿坊が肩を寄せ合う。旅館同様に四季を通じて誰でも泊まれ、宿泊料金も手ごろだ。星空を眺めに来る家族連れや森林浴を楽しむ熟年客が訪れる、知る人ぞ知る東京の別天地なのである。


 神社への参道の一番上に位置するのが、西須崎坊とも呼ばれる「蔵屋」。三室ある天空の間や天空風呂からは、晴れた日には関東平野が一望のもと。空気が澄む秋から冬にかけては、宝石のような夜景が眼下に広がる。食事には、自家栽培の芋を使ったこんにゃくの刺身や、野菜の煮つけ、天然の鮎など、心のこもった料理が並び、酒もうまい。そして、御岳名物とまで言われる蔵屋の「おやき」は、何個もお土産に買って帰りたい懐かしい味。北海道産の小豆を使った毎日手作りの限定品だ。


 武蔵御嶽神社では、十一月までの毎月第三日曜日に、都無形民俗文化財「太々神楽(だいだいかぐら)」の夜神楽が特別公開されている。宿坊に泊まり、夜神楽見物としゃれてみるのはいかがだろう。


(2007年8月)


蔵屋(西須崎坊)


東京都青梅市御岳山142JR青梅線御嶽駅よりバス・ケーブルカー・徒歩で約30~40分。

0428・78・8473

http://www7a.biglobe.ne.jp/~kuraya/





 沖縄というと海をイメージしがちだが、山からの眺望も素晴らしい。沖縄本島北部、地元の古い方言で「たにゅう」と呼ぶ多野岳の山頂に、「沖縄で空に一番近い宿」ホテルタニューがある。ホテルからは、「やんばる」の山々や太平洋と東シナ海が一望できる。人気の「美ら海水族館」や世界遺産「今帰仁城址」まで車で数十分と近く、ホテルをベースに滞在するのも魅力的だ。


 宿泊者に人気が高いのは、一万円ほどで楽しめる「マクロビオティックプラン」。肉、卵、牛乳、化学調味料を一切使わず、沖縄の島野菜やジーマミ豆腐、雑穀などを使った健康的な料理を一日三食いただくことができる。さらに本格的に体験したい方には、専門講師の指導のもと、健康を見直す二泊三日の「プチ断食セミナー」も年に数回行われている。マクロビオティックの食事に加え、森林浴やウォーキングなどを通じて、心身のリセットをめざす現代人に好評だという


 客室は、眺めのよい和室のほか、バリアフリーの和洋室、半露天風呂の付いたコテージ、ログハウスなど多彩だ。敷地内には、グラウンドや体育館、パークゴルフ場、テニスコートもあって家族やグループで訪れても楽しい。


 沖縄を満喫した後は、館内の大浴場で汗を流そう。晴れた日には、満天の星空が一日を締めくくってくれる。


(2007年7月)


ホテルタニュー ウェルネスリゾートオキナワ

沖縄県名護市仲尾次1577-2那覇空港より車で約90分。名護までバスで約120分、車に乗り換え15分。

0980・58・4558
http://www.tanew.com/



 旅には、非日常な場を楽しむ「空間」重視の旅と、思い出を刻む「時間」重視の旅がある。十畳以上の広い客室が当たり前になった現在、あえて小さな六畳間に身をゆだね、ゆったりとした時の中で会話を楽しむ旅も増えているという。


 ただし、「六畳間」や「裏景色の部屋」が紹介されることはほとんどない。馴染み客や業界関係者だけが知る。そんな小部屋に泊まり、旬の味覚や温泉三昧を楽しむ。そんな「通」な旅なら、祝日がなく静かな六月がもってこいだ。


 日本有数の鮎の生息率を誇る久慈川が育む茨城県奥久慈地方。弘法大師の護摩修行伝説が残る名瀑「袋田の滝」のたもとに、アルカリ度が高く、美人の湯と呼ばれる袋田温泉が湧く。茨城県民は同窓会などの集まりで集うのが好き。昭和十一年創業の自噴泉の宿は、時をかける旅人たちで常に賑わう。宿の名は「思い出浪漫館」。思い出を作って帰って欲しいと名づけた。


 六畳間に二人で泊まればひとり一万円。パンフレットには載っていない部屋で、知る人ぞ知る。旅館のひと部屋ごとは人生の縮図。大きく目立つ人生もあり、小さくとも誇れる人生もあり。思い出の一ページをまた増やしたい。


 六月には鮎漁が解禁となり、山荘風のダイニングでいただく食膳にも鮎の塩焼きが付く。蛙が鳴く六月を過ぎると、ホタルの季節がやってくる。


(2007年6月)


思い出浪漫館


茨城県久慈郡大子町袋田978

JR水郡線袋田駅より車5分。

0295・72・3111

http://www.ibako-hotels.co.jp/roman/



 

 ホテルの禁煙フロアというのは珍しくなくなったが、全室禁煙の温泉宿となると多くはない。とはいえ、「お客様の苦情のうち三本指に入るのが客室のタバコの残臭」と語るのは、庄内三名湯のひとつ、湯田川温泉(山形県鶴岡市)の老舗「九兵衛旅館」の若主人、大滝さん。「それなら」と、隣接する八室の姉妹館「珠玉や(たまや)」を、空調機器の入替えを機に全室禁煙の宿とした。館内の一角に扉付きの喫煙コーナーを設けたが、食事処や浴室ももちろん禁煙。紫煙を苦手とする方には朗報である。


 珠玉やの売りは「何もしないこと」。客室係をおかず、宿泊客に気楽に滞在してもらおうという趣旨だ。そして、三つの「貸切り風呂」。別の旅館を引継いで再生し、大浴場を貸切り風呂としたので、広くて気持ちがよい。湯田川の湯は源泉が約四三度なので、最小限の加温でちょうど良い湯加減。開湯千三百年の湯を思う存分楽しめる。貸切り風呂が使用中なら、外湯を楽しむのも一興だし、九兵衛旅館の大浴場の借り湯もできる。


 九兵衛旅館の女将は、歴史小説家の藤沢周平が中学校教員だった頃の教え子なので、同旅館のロビーには藤沢周平ゆかりの資料展示もあり、借り湯ついでの見学も可能だ。


 五月、湯田川温泉は名物「孟宗筍」の収穫ピークを迎え、たけのこ一色となる。


(2007年5月)


九兵衛旅館(別館)珠玉や


山形県鶴岡市湯田川乙39

JR鶴岡駅からバスで25分。

0235・35・3535

http://www.kuheryokan.com/tamaya/





 日本は島国なので「国境」の存在を忘れてしまいがちであるが、日本で唯一、大陸を望める地がある。それが、対馬最北端の韓国展望所。よく晴れた日には、釜山の夜景や山影を薄っすらと遠望することができる。手前には、航空自衛隊のレーダー基地や砲台跡があり、ここが国境であることを思い起こさせてくれる。


 国境に最も近い国民宿舎が「上対馬(かみつしま)荘」。エメラルドグリーンの海水浴場と日本海にはさまれた岬に立つ。設備は少々古めかしいが、対馬の人情味あふれる接客が今も残っている。夜になると、目の前の海一面にイカ漁の漁り火が点々と灯る。車で五分の海辺には上対馬温泉「渚の湯」があり、温泉も楽しめる。最近では、日本人だけではなく、韓国からの観光客も増えているという。最寄りの比田勝港まで、ジェットフォイルで釜山港から八十分。博多港からは約三時間かかることを考えると、対馬のハイキングや釣りが韓国で人気があるのもうなずける。


 対馬は、異国との交流や戦いを経てきたので史跡が多いが、原生林が残り、自然にも恵まれている。ツシマヤマネコは有名だが、韓国展望所のある町「鰐浦(わにうら)」には、天然記念物ヒトツバタゴが群生している。五月初旬、国境の町は、一面に雪が降ったように真っ白な花で染まる。


(2007年4月)


上対馬荘

長崎県対馬市上対馬町西泊390

対馬空港からレンタカーで1時間40分またはバスで2時間10分。比田勝港から車で5分。

0920(86)3120

http://www.kokumin-shukusha.or.jp/annai/ken/nagasaki/542215.html