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誤差の範疇

思うところアリ


SNSが人々の生活に(がっつり)定着し始めて久しいですが、なんだかんだ僕はTwitter・Facebook・Instagramでとどまってますね。

今は更に多くのSNSがあるみたいですが、僕にはこれで十分です。

というか生活のほとんどが仕事なので、あとは帰ってSNS見て寝て終わりって感じですね。ははは。





さて、
「人はいつ死ぬと思う?」
と聞かれたら我々世代はまずONE PIECEのDr.ヒルルクを思い浮かべますよね(だよね?)。

恥ずかしながら僕は知らなかったのですが、永六輔 という方が同じような言葉を遺しているみたいです(元ネタ?)。



人は二度死ぬ
一度目は個体的に死ぬ時
二度目は私という人間は常に誰かの思い出の中で生きている
それを思ってくれる人が一人もいなくなった時、
人は本当に死んだといえよう




なるほど、今にも「まったく!!!!いい人生だった!!!!!」と言いながら爆死しそうな雰囲気を感じますね。

これは間違いないことだと思います。まさに名言。



ただですよ。最近は逝去→忘却の前にもう一段階あるんじゃないかと思うわけですよ。そんなお話です。




この数年で僕の同年代の知り合いが何人か亡くなりました。

それぞれ理由も明確には分からないし、そんなにすごい仲が良いというわけでもなかったですが、どういった形であれ同じ時間を共にした方々なので、やはりどこかやり切れなさ、虚しさを感じました。




そんな彼らのFacebookを見てみると。




一人は、父親がコメントを書いています。

没後の誕生日にも悲しみのコメントを。

翌年の誕生日にも。


もしかしたら、これから毎年書き込むのかもしれません。




もう一人は、葬式の数日後が誕生日でした。

亡くなったことを知らない彼の知人たちが当然のように書き込みます。「誕生日おめでとう!」と。

誰も何も言いません。

返信はもちろんありません。

第三者も書き込めます。ですが僕には書き込めません。その勇気も無いし、もっと近しい人がやるべきだと思ってしまいます(ごめん)。


事実を知らない人たちは来年も書き込むかもしれません。

ご丁寧にFacebookから誕生日のお知らせが来ますから。





これがまた、Facebookでつながっている人みんなが見れてしまうから残酷な話だなと。

そもそも前提として、亡くなった後もそのSNSのアカウントは存在し続けてしまうんですね。

御墓参りと同じ感覚で周期的にその人のアカウントを見に行くこともあるでしょう。

あるいはそんなに濃い関係ではなかった人たちにとってみれば、まさしくそのSNS上で、その人は生き続けているわけです。





人はいつ死ぬか。

肉体の死。

忘却の死。

そしてSNSサービスが停止したときに、もう一度人は死ぬのではないでしょうか。





僕の各SNSもそうです、遡ればmixiとか、あとは高校時代・浪人時代のブログなんかもありました(今の今まで忘れてた)(恥ずかしい)(黒歴史)。

もし僕が急死したときは、それらがサービス停止になるまではネットの海を漂い続けるわけです。



なんて今更言うまでもないただの事実に帰結してしまいましたが、まあそういうことですよ。

つぶやき一つとっても、それが後々遺言になったりするかもしれない。

永遠に僕のしょーもない過去のイラストがネットに残り続けるかもしれない。


細かく掘り下げていけば結構面白い話になりそうだけど、今回はこの辺で。




まあ生きづらくもなったけど、望みを叶えやすくもなってる時代なのかなーなんて思ったり思わなかったり…

でもやっぱこの時代を生きるのって、むずかしーわ。