ことばに就て | Lake's Bass Factory

Lake's Bass Factory

当たり障りのないことを書くつもり。

 吉田健一風の題にした。もしかしたらすでにこういう題で何か論じているかもしれない。

 

 日本に生まれつき、日本語を話す両親のもとに生まれ、幼少期から周囲に日本語があふれているような環境で十二年も生きた人間が、それも人間的に非常に重要な十二年を過ごした人間が、英語教育の制度の中で途方もない努力を重ねたところで、英国に生まれつき、英語を話す両親に生まれ、英語に囲まれた世界で生きてきた人間のようにはならない。これは比較的最近に私が発見したことであって、英語教育の制度から多少外れた私でさえも、英国人にはなれないのである。

 しかしそれは悲しむべきことではない。まして英国人になれないからといって英語との関係をすべて絶つというような過激極まる行動に出る必要もない。英国人になれないことは確かに残念ではある。しかし私は日本人であるという確証もまたないのが最近の情勢であって、結局私のなりたかった英国人とは英国人ではなくてジョン・クリーズとかジェレミー・クラークソンとかクリス・スクワイアだったのであり、そこに人間はいても英国人はいない。これは昨年ノーベル文学賞を受賞したイシグロ氏にも言えることであって、彼が日本でやけに取り上げられたこと、あるいはそれに対して彼は日本人ではないので過度に反応すべきではないとかやはり長崎生まれで両親も日本人だから敏感になるのも致し方ないとかいう議論は的を大きく外している。イシグロ氏は何人でもなく、唯イシグロ氏であるということが評価されたのである。そしてこのノーベル委員会の評価には同意せざるをえなくて、それは彼の本を読めばそこに他でもなく彼を感じることからも明らかである。

 それでは外国語を学ぶということに何の意味があるのだろうか。それにはまず言葉が思考の道具であるということを再認識せねばならない。われわれは言葉なしで思考することがおよそ想像できないし、ゆえに突き詰めれば言語は世界であるというところまで行く。そしてあらゆる言語が思考の道具なので、それは英語も日本語も変わるものではない。あるいは母語がどうのということも関係がなくて、母語というのは単なる反射神経の問題、すなわち急に話題を振られてまず何語が先に出るかという差でしかない。前に音楽が言語であるという話をしたが、上手な音楽家は音を言葉がわりに思考しているのである。そしてそれが機能しているのだから、日本における第二言語である英語についても悲観的になる必要はまったくない。音楽家が途方もない努力を重ねて音楽家になるごとく、途方もない努力をして英語を身につけた人間は、決して英国人にはなれないけれども、英語で思考することはできるようになるのである。あるいは英語で思考できるようにならなければ英語を身につけたことにならないと言えるかもしれなくて、一つの言語の途方もない深淵がここに覗いている。人によってはそれが楽しみかもしれなくて、だから英語をいつまでも勉強し続けるような人もいる。

 この時点で問いは問いになっていなくて、つまり外国語を学ぶということは程度の差こそあれ思考の道具を増やすことである。言語の上達とはより込み入った、抽象的な思考ができるようになることで、そのためには非常に多くの修練を必要とするが、思えば日本語であっても抽象的な思考が得意になるのに大量の本を読み、頻繁に議論するほかないのと事情は同じである。そして二つの言語で思考できるということは、世界が二倍になるということでもある。世界が二倍になるということは、日本語で見える世界と外国語で見える世界とを比較し、その異同に意識を向けるきっかけをつくり出す。それはもしかすると近年叫ばれている多様性とかの認識に直結するかもしれない。

 目的はかくして明らかであるとしても、方法はどうだろうか。母語と外国語の差は反射神経だと述べたが、なぜ外国語は反射が遅れるかというと、コンピュータのごとくに文法を起動する時間が要るからである。外国語は母語ではない以上文法にすがるしかない。種々雑多なテクストから共通の文法を取り出して身につけられるのはごく幼児期に限られ、そうでなければ言語学者など不要である。言語学者の努力の結晶をありがたく頂戴して、われわれは文法を学ぶ。そして文法がなければ、われわれは、少なくとも十二歳のわれわれは、外国語など到底身につけられはしない。

 しかし文法を学ぶにもその外国語を使う必要があって、人間はひと月で練習曲を忘れるように、使わないものは忘れていってしまう。外国語を使うというのも要するに外国語で考えるということであって、だから最初期の学習者が大抵行うのは頭の中や紙の上での日本語訳である。上達に従って外国語は日本語の枷を振り捨て、外国語にしかない奇妙な言い回しが奇妙とも思われなくなってくるといよいよ一流は近い。だから外国語をどう使うということはあまり重要ではないのである。どう使うにせよ、外国語で考えようともがいているという事実は変わらず、そのあがきに似たストレスが次の上達を保証する。

 日本人は英語がどうのという論を見るたびに、日本人というありもしない括りの意味を疑いたくなる。結局スピーキングがどうのと言ってみたところで英語ができる人間というのは英語で物を考えられる人間であり、英語で物を考えられる人間の口数が少ないことは英語能力の問題ではなく個人的な、性格の問題である。そして英語の視点と日本語の視点で見え方が違うのであれば、英語を話すときと日本語を話すときで性格が違ってもさしたる不思議はない。あるいはあることないことすべて可視化して間違いに対する異常な敏感さを日本人とやらが持っているというのならば、それは英語能力の問題ではなくもっと全般的な教育制度の問題である。間違いが許されない場というのは日本語の環境にもあって、たとえば就職面接や結婚式の挨拶で原稿もないという状態であれば、そう易々と言葉が出てくるものではない。そしてそういう場での言葉が流暢でないからといって、その人が本質的に日本語ができないとかいう判断は下さないはずである。

 するとやはり試験がいけないということになるのだろうか。試験というのは、特に入学試験の場合は政治的な問題であって、そのとき英語が省みられることは稀である。しかしどうしても試験はしなければならないので、こと大学の試験においては各自テーマを選び、それなりの長さの英文にまとめて、プレゼンテーションと質疑応答を行う形式にしてはどうか。大学の負担が大きくなるという意見があるかもしれないが、入学前からある程度の英語論文を書く能力が備わった学生が来ることは教員の負担減になるだろうし、そもそも現状卒業論文を英語で書く人の数を考えても大量の応募があるとは考えにくい。予備校で大量生産されたようなレポートや発表は、質疑応答によってふるい落とすことができる。あるいは万一ふるい落とせなくても、それはそれだけ英語を身につけた若者が多いということなのだから、喜ぶべきことである。四技能がどうのという人間も、たとえば参考文献の最低七割は英語文献にするという制限を設ければ、おおむね満足することだろう。

 どこまでが本気でどこまでが冗談かについては各自の判断に任せるとして、ちょっとことばについて語らなければならない機会が生まれたので整理するために書いた。整理されていないとすればそれはいつもの私だと思って頂いて差し支えない。実際語るにあたってはもう少し短く深い内容にすると思う。

 

 

 

それでは。