Germania Anno Zeroは、終戦直後のベルリンを舞台に、12歳の少年Edmundが困窮にあえぐ彼の家族を救うべく様々な方法を試し、最後には良かれと思って父親を毒殺するも、直後に自分の孤独に気づいて自殺するという筋書きである。
Edmundを死に追いやったのはコミュニケーションの機能不全である。それはたとえば話がかみ合わないというような表面的なものではなく、コミュニケーションそのものに関するコミュニケーション不全なのである。Edmundが孤独に気づいて自殺、と書いてしまったが、実際には映画が始まった時からEdmundは孤独なのであり、それは噴水でナチの元教師に出会う直前のシーンでも表現されている。彼は噴水で遊ぶ子供たちの中には入っていけない。
Edmundには病気の父、従軍していたために逮捕を恐れて外に出ない兄、社交場でタバコをくすねる姉がおり、アパートには計7世帯で住んでいる。これだけ人に囲まれながら、末っ子Edmundには一人もコミュニケーションを取る相手がいない。いや、父親は彼を可愛がっているのだが、その愛がコミュニケーションを阻害している。父親はことあるごとに働きに出ない兄を非難し、幼いEdmundに働かせて申し訳ないと言う。しかし父親が兄を非難すればするほどEdmundには自分が努力するという道しかないように感じられるのであり、申し訳ないと言えば言うほどかえって自分が働かないことがありえなく思えてくる。父親の発言は現状を固定し、覆せなくするものであり、その点でEdmundの行動の自由を制限しているのだ。
Edmundは家族の前で、しきりに、まるで紋切型のように「自分がなんとかする」という旨の発言を行う。ここにはバザンが指摘する表情の無変化と同じ無変化がある。しかし、Edmundは実のところ変化を起こすだけの力を持ち合わせていないのだ。変化によるコミュニケーションを起こすことができず、従って病の父との会話は形骸化した単なる儀式と化している。
彼は元教師との出会いによって、ガラの悪い若者グループや元教師その人という話し相手を得るが、彼らはEdmundを利用するだけで、Edmundの呼びかけに応じてくれることはない。冒頭、墓堀の仕事を年齢を理由に追い出されるシーンからすでに前景化している通り、彼は年齢以上に大人と同等であろうとしているが、大人からは子供だと思われている。それでいて子供の輪には入れず、自殺の直前も一人廃墟で遊ぶのみである。映画の終盤、兄から「お前はまだ子供なんだ」と言われたとき、「どうして早く言ってくれなかったの」と返したEdmundのこの台詞は、非常に印象的である。
だからといって、この映画は大人の犠牲になる子供の物語だと言ってよいのだろうか。それには疑問が残る。確かにバザンの言う通り、Edmundは表情の変化に乏しい。また毒殺の手際は見事というほかない。Edmundの心情はまったく明らかにされないため、たとえば噴水で子供たちの輪に入らないのが、自分が疎外されているからなのか、それとも遊ぶ子供たちを「子供っぽい」と思っているからなのか、それさえよくわからない。変なところで手際が良く、変なところで世間知らずないびつな存在、このいびつさと取り巻く状況がかみ合ったときに、いかなるコミュニケーションも不可能な、なすすべなく破滅へ至る道が開かれるのかもしれない。












