秋を感じる瞬間は?
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今年、秋を感じた瞬間は、コスモスの花が咲いているのを見たとき。
例年もそれほど出歩いたりはしていないと思うのですが、今年はとにかく自宅にこもりっぱなし。
テレワークの日は一歩も外に出ないし、出勤の日も家と職場の往復だけ。
そんな時、母の病院に付き添った道沿いに、きれいなコスモスが咲いていました。
「ちょっと前までアジサイが咲いたよなんて言っていたのに、もうコスモスが咲いてるよ」と母に言いながら、いつになったら気兼ねなく外出できるんだろうと思ったりして。
空気が澄んで、空がグーンと高く感じられるのも秋だなあと思いますね。
朝食のデザートにりんごが出始めたのも、秋ですね。
本日の読書:雪と珊瑚と 梨木香歩
『珊瑚、21歳。生まれたばかりの子ども。明日生きていくのに必要なお金。追い詰められた状況で、一人の女性と出逢い、滋味ある言葉、温かいスープに、生きる力が息を吹きかえしてゆく―。シングルマザー、背水の陣のビルドゥング・ストーリー。』
シングルマザーの珊瑚、21歳。
親に育児放棄された過去を持つ彼女が、周囲の人に支えられながらカフェをオープンさせる話だ。
梨木香歩の作品はストーリーを追うことを主眼としていない。
私はいつも、行間と自分が対話しながら読んでいるけれど、それもまた正しい読み方なのかはわからないが。
しかし、それにしても、この作品はさすがに。
まず、くららのような人に出会えるのが奇跡。
保育士の資格は持っていないけれど、生きるためのさまざまな知識を持ち、海外経験も豊富で、一軒家に住み、無農薬野菜を栽培している甥を持つ人が、「預かり料は払えるようになったらでいいわ」なんて、夢ですか?
生活のために子どもを預けなければならないのは事実だが、子どもを預けるということには、もうひとつ意味があると私は思っている。
”雪に、自分以外の信頼できる大人がいる、というのは大切なことのように思えた。”
一つの出会いが次の出会いを生み、一つの行いが次の行動を呼ぶ。
21歳で、シングルマザーで、頼れる親族はなく、貯金もなく、国民健康保険すら未加入で、でも、カフェを開く。
実際にはこんなにトントン拍子に行くはずはない。
”どんな絶望的な状況からでも、人には潜在的に復興しようと立ち上がる力がある。その試みは、いつか、必ずなされる。でも、それを、現実的な足場から確実なものにしていくのは温かい飲み物や食べ物――スープでもお茶でも、たとえ一杯のさ湯でも。
(中略)
でも、こうやって他者から温かい何かを手渡してもらう――それがたとえさ湯であっても――そのことには、生きていく力に結びつく何かがある。それは確かなことだ。”
ひとりで立って歩くために支えてもらうことは、恥ずかしいことではないんだよ。
私はそう読みました。
奥付を見ると2012年4月発行。
うん。なるほどね。
施し。憐れみ。無力感。プライド。
そういう心の向きや持ち様と、どう折り合いをつけていくか。
いや、つけることでどう生きていくのか。
くららのようなスーパーおばあちゃんは身近にいなくとも、見渡せばだれの周囲にもきっと、手を差し伸べてくれる人や差し出される手を待っている人がいると思う。
豊かに生きるかどうかは、自分次第だ。
差し伸べられた手を使って立ち上がって、次の人に手を差し伸べることができるなら、それはとても有意義なことなのではないだろうか。
周囲の手や社会のシステムに支えられてここまで来た私は、次の人を支える立場にならねばならぬ。
ああ、子守したい~。(おかずケーキは作れません)
Amazonより
『珊瑚、21歳。生まれたばかりの子ども。明日生きていくのに必要なお金。追い詰められた状況で、一人の女性と出逢い、滋味ある言葉、温かいスープに、生きる力が息を吹きかえしてゆく―。シングルマザー、背水の陣のビルドゥング・ストーリー。』
シングルマザーの珊瑚、21歳。
親に育児放棄された過去を持つ彼女が、周囲の人に支えられながらカフェをオープンさせる話だ。
梨木香歩の作品はストーリーを追うことを主眼としていない。
私はいつも、行間と自分が対話しながら読んでいるけれど、それもまた正しい読み方なのかはわからないが。
しかし、それにしても、この作品はさすがに。
まず、くららのような人に出会えるのが奇跡。
保育士の資格は持っていないけれど、生きるためのさまざまな知識を持ち、海外経験も豊富で、一軒家に住み、無農薬野菜を栽培している甥を持つ人が、「預かり料は払えるようになったらでいいわ」なんて、夢ですか?
生活のために子どもを預けなければならないのは事実だが、子どもを預けるということには、もうひとつ意味があると私は思っている。
”雪に、自分以外の信頼できる大人がいる、というのは大切なことのように思えた。”
一つの出会いが次の出会いを生み、一つの行いが次の行動を呼ぶ。
21歳で、シングルマザーで、頼れる親族はなく、貯金もなく、国民健康保険すら未加入で、でも、カフェを開く。
実際にはこんなにトントン拍子に行くはずはない。
”どんな絶望的な状況からでも、人には潜在的に復興しようと立ち上がる力がある。その試みは、いつか、必ずなされる。でも、それを、現実的な足場から確実なものにしていくのは温かい飲み物や食べ物――スープでもお茶でも、たとえ一杯のさ湯でも。
(中略)
でも、こうやって他者から温かい何かを手渡してもらう――それがたとえさ湯であっても――そのことには、生きていく力に結びつく何かがある。それは確かなことだ。”
ひとりで立って歩くために支えてもらうことは、恥ずかしいことではないんだよ。
私はそう読みました。
奥付を見ると2012年4月発行。
うん。なるほどね。
施し。憐れみ。無力感。プライド。
そういう心の向きや持ち様と、どう折り合いをつけていくか。
いや、つけることでどう生きていくのか。
くららのようなスーパーおばあちゃんは身近にいなくとも、見渡せばだれの周囲にもきっと、手を差し伸べてくれる人や差し出される手を待っている人がいると思う。
豊かに生きるかどうかは、自分次第だ。
差し伸べられた手を使って立ち上がって、次の人に手を差し伸べることができるなら、それはとても有意義なことなのではないだろうか。
周囲の手や社会のシステムに支えられてここまで来た私は、次の人を支える立場にならねばならぬ。
ああ、子守したい~。(おかずケーキは作れません)