カレンダー通り勤務の私は、今日から5日までが連休です。

さて、連休初日の今日、なにをしていたのかと言えば…。

 

朝一で美容院に行ってきました。

朝一過ぎて、お店についた時はまだ朝礼中でした。

なので、何食わぬ顔をしてお店を通り過ぎ、シャッターの降りている隣のお店の前でバッグをあけて、メンバーカードや文庫本などをごそごそ漁っていたのですが、美容師さんが「マッピーさん、もう終わりましたから、お店にどうぞ。こんな寒空に外に立たせて、すみません」と走り出てきましたよ。

こちらこそ5分前に着いちゃってすみません。

 

去年の今頃は、「マスクはつけていても外してもかまいませんよ」と言われましたが、今はマスクは必須。

その代わり、耳に掛けるゴムを外して、フックベルトでマスクを留めてくれるようになりました。

っていうか、去年の今頃もマスクは外しませんでしたけどね。

 

実は今日からカーリングの世界大会がはじまって、10さんがテレビの前から動きません。

なので、午後からは本を読んだりお昼寝したり。

いやあ、極楽。

あとはもう少し暖かければなあ。

 

明日も10さんはカーリングを見る予定なので、私は図書館とTSUTAYAに行くくらいで、あとは読書三昧かなあ。

 

「勉強はしないの?」って10さんが言ってます。

これからやろうと思っていたのにぃ!むかっ

 

 

本日の読書:教団X 中村文則

 

 

カバー裏より

『突然自分の前から姿を消した女性を探し、楢崎が辿り着いたのは、奇妙な老人を中心とした宗教団体、そして彼らと敵対する、性の解放を謳う謎のカルト教団だった。二人のカリスマの間で蠢く、悦楽と革命への誘惑。四人の男女の運命が絡まり合い、やがて教団は暴走し、この国の根幹から揺さぶり始める。神とは何か。運命とは何か。絶対的な闇とは、光とは何か。著者の最長にして最高傑作。』

 

これは面白かった。

久しぶりに1時間100ページのペースで読めるくらい。

通勤時間はもちろん、エスカレーターに乗っている時も、エレベーターの中でも、地下通路を歩いている時も、ずっと読んでいた。

そのくらい、夢中で読んだ。

第一部は。

 

惜しむらくは性描写がくどいこと。

でも、抑圧からの解放のわかりやすい例えだったり、抜き差しならない羽目に陥らせることが容易なアイテムだったり、もしかしたらフロイトが隠しテーマだったりするのかもしれないと思いながら読んだけど。

 

とにかく名前のない宗教団体の教祖、松尾の語る奇妙な話が面白い。

ブッダの言葉「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟(しゆい)〉の根本をすべて制止せよ」

これは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を2000年も前に否定していることになる。

何故か。

 

ブッダはただ思索するだけで、細心の脳理論、さらには量子力学がいうところのものと同じ結論に達していると、松尾は言う。

無限と有限、光と闇、物質と反物質。

相対するものが最初から用意されていることの意味とは。

 

なんてことを読むのが本当に楽しくて、楽しくて。

だから第二部になって、相変わらず過剰な性描写に辟易しながらも読み進めていくうちにテロと公安の話が挟まってきてから、ちょっと減速したかな。

もちろん第二次世界大戦の、日本政府や軍部の在りように対する憤りや、富裕層と貧困者のますます開いていく格差などについては、大事なテーマだと思うし、共感もあるけれども、この作品に詰め込まなくてもなあと思ったり。

 

でも最後まで読んで、松尾の妻・よっちゃんさんの言葉を読んでわかった。

長いページを費やして作者が書きたかったのはこれだ。

 

「私達は、松尾正太郎の遺志を継ぎましょう。松尾の意志の中で、平和論に関しては確かに理想かもしれない。でもああいうことを理想だと言い、現実は云々と言い、いかにも自分は現実を見ているというような気持ちよさに浸ることは簡単です。理想を捨てれば人類は後退するだけです。あの理想を掲げながら現実の中でどう平和に向かい奮闘するかが大事なのです。」

 

「―夢は見られる。生きていたら、その中で、どんな小さなことでも肯定できるものがある。私達は、全ての人類がこの世界の一部でも肯定できるように、一つでも多く、そういう肯定できるものを増やすことができるように、努力していきましょう。善を行うことに構えてはいけません。気軽な善でいい。」

 

「共に生きましょう!」

 

肝心の教団Xについては、あまりよくわからないかった。

全ての善悪を含むしがらみから自由であろうとする教祖・沢渡は、ではなぜ、あれほどに虚無的なのか。

しかし何一つ否定することのない教団の中でしか生きられない、とことん傷ついた人たちは、沢渡の思い付きの言葉に縋りつき、振り回される。

 

私はすっかり松尾教信者になりましたよ。

特にこれといった教えがあるわけではない、ゆるゆると世界の真理を考えながら、安易に気持ちよさ(偉い人に盲従する気楽さと、多数派であるという心強さと、他者を見下す勘違い)に流されまいとする誠実さに五体投地。

信者たちに笑われ、怒られ、全然偉ぶることなく人々の中心にある。

 

で、よっちゃんさんは、そんな彼らを見守りつづける。

大いなる存在である夫と、彼を慕い集まる心に傷を負った人々を。

覚悟を持って。

ええ、私が師としたいのは松尾正太郎ではなく、松尾芳子の方です。