ラビちゃんがいない一日。
テーブルの上のどこでもデスクが悲しい。
何も乗っていないどこでもデスクを見ながら食べるご飯は寂しい。
いつ帰ってくるのかなあ?
記憶喪失になって帰ってくるかもしれないらしい。
それはちょっと困る。
元気になって帰ってきてくれるのを、今は大人しく待つだけだ。
ああ、寂しい。←パソコン中毒ということか?



本日の読書:白虎隊 中村彰彦

カバー裏より
『白虎隊士は、飯森山で短き命を終えた士中二番隊の十九士だけではなかったー。本書は、白虎隊と総称された会津藩の五つの少年部隊の、越後口、戸ノ口原、会津城下、籠城戦での戦いと、その激戦を生き延びて、苦難の明治時代を生きた者たちの生と死の軌跡をたどる一冊。会津藩に取材した多くの作品を発表してきた著者が、最新の研究成果を増補して加筆。白虎隊の実像と全体像に迫った決定版。』

白虎隊についてはあまり詳しくないので、時系列でない、行ったり来たりの書き方が分かりにくかった。
例えば白虎隊の生き残り、飯沼貞吉について書いてある部分も、諸説が別々の章で書かれているので、スムーズに頭に入ってこないのだ。

幼い頃から「什(じゅう)の掟」で、人としてのあり方をしっかり教え込まれ、年長者の言うことを疑うことを知らなかった会津の少年たちは、自刃して果てることになんの疑問も抱くことはなく、もしかしたら恐怖すら感じることなく死んでいったのかもしれない。

そして藩主には、幕府を絶対に守ることが、会津松平家の初代である保科正之によって義務付けられていた。(保科正之自身は、徳川ゆかりの松平という姓をおそれ多いと名乗っていない)
生涯、徳川秀忠の隠し子として、徳川家を支えることに徹した保科正之の実直さが、幕末に裏目に出る。

しかし、あえて厳しいことを言うと、徳川慶喜の命が担保された時点で、松平容保が新政府に投降していれば、この悲劇は起きなかったのではないか?
松平容保の身柄を押さえさえすれば、長州も満足だったのではないだろうか。
結局、罪を一等減じられて松平容保自身は生き長らえたのだし。

戊辰戦争が終わっても、会津の悲劇はまだ続く。
生き残った者達の屈託。
薩摩藩へのリベンジのため、西南戦争で新政府軍に入る会津の生き残りも多かったのだという。
人の心は簡単に切り替えることはできないのだ。

白虎隊については、明治2年4月に発行された新聞で、すでに健闘を讃えられている。
賊軍ということになっているのに、これは異例なことではないだろうか。
ちなみにその新聞の名前は「天理可楽怖(テリガラフ)」
なかなか凝ったネーミングじゃないですか。