この曲を知ったのは20年くらい前でした…
岡山駅近くにある小さな中古レコード屋さんの棚を見ている時、肩の高さくらいの棚の上にちょっと大きめのポップが立て掛けてありました…
なぜかそのポップの裏側が見たくなったのだったか、そのポップに書いてあることを見もせずに、そのポップを手前に倒して後ろ側を見てみたのです…
そうすると1枚のCDが置いてありました…
CDがあってちょっと驚いたのですが…
手に取ってみると、豊田勇造、長野隆という全く知らない人の名前が…
和傘を前に写っている写真…
何だろう、浪曲とかそういうジャンルのものかな?
と思ったのだったと…
でもこの2人の服装が、浪曲とかそういうジャンルではないように思ったのだったと…


買おうかどうか少し迷ったのだったと思いますが、もうその頃はテレビなどから流れてくる流行歌にはもうかなり飽き飽きしていたのです…
それでレジに持って行き購入したのです…
レジの人に、なぜポップの後ろにこのCDが置いてあったのか聞こうと思っていましたが、なぜか聞きませんでした…
でもレジの人(女性だったと思います)は、このCDを渡した時『あっ、このCD』みたいな表情をしたのだったと…

家に帰ってから聴いてみると…
自分にとっては全くの無名のこの2人の演奏は、凄く感動的なものでした…
当時2005年頃は、私は全身のアレルギーの状態が最悪だった頃で、仕事にも就いておらず、全てにおいて酷い状況でしたから…
このライブが行われたのは1974年…
当時の2005年からは31年前になります…
2005年は現在の2025年から見れば、かなり古き良き時代だったように感じますが…
しかし2005年当時の自分にとっては、このライブが行われた1974年という時代が、自分がまだ幼かった頃がとても懐かしいように感じられました…

数々の名曲が収められていますが…
その中でも特に印象的なのが "ある朝高野の交差点近くを兎が飛んだ" という曲です…
窓辺に兎が現れたという歌詞ですが…
実話なのかどうか?
たとえ空想だったとしても、長野隆さんの奏でる幻想的なビアノをバックに、勇造さんの語る出来事は凄く感動的なシーンだと思います…

この兎は、勇造さんに何かを伝えに来たのではないでしょうか…
ギター1本を手に将来の保証も何もなく、自身のインスピレーションをひたすら歌い続けてきたその結果…
それで良かったんだと伝えに来てくれたんじゃないでしょうか…
それくらい私には感動的な場面に思えます…

力を失った方向と 方向を失った力よ 
仲間割れをおこすな 暗い部屋の中
と歌われています…
善悪、ネガティブ・ポジティブ、貧富、男女など、対になるもの…
どのラインが正解なのか?
どうすれば正解に辿り着けるのか…
何も分からないまま人は走り続けなければならないわけです…
この兎さんは、勇造さんに、それで良かったのだと教えてくれたのだと思います…

この曲には随分救われましたね…
勇造さんの場合、兎さんでしたが…
人により使者は違ってくるのかもしれないですね…
この曲で歌われるシーンと同じような光景が、多くの人に訪れるといいですね…


第二京都主義

ある朝高野の交差点近くを兎が飛んだ

豊田勇造

2010/12/30


北大路通りと東大路通りが交わる高野の交差点を通るたび思い出すのが、「ある朝高野の交差点近くを兎が飛んだ」という長くて一風変わったタイトルの曲です(笑)。


〈高野の交差点〉


その曲は、次のような長い“語り”から入ります。


その日の朝は、二日酔いの頭のガンガンする朝で・・・

それでもやっぱりいつもどおり、比叡山の裾野の見える北向きのちっちゃ~い、北向きの窓の下に置いてある、

おもちゃみたいなピアノに腰を下ろして

ぽろーん、ぽろーん、ぽろーん

目覚めの曲を弾いてると、突然窓の横をサーッと兎が横切った

あれ、これはおかしいぞ 

なんでかと言うと、俺の部屋はさっき歌に歌われた、かの有名な高野グランドマンションの2階にあるので、

もしも本当に兎が窓を横切ったとしたら、人通りのある交差点近くの、それも空中何メートルのところを兎が本当に飛んだことになる


そうこうするうちに窓辺にちょこ~んと兎が腰を下ろして、

「もしもし、おはようさん、勇造くん」

「もしもし、おはようさん、勇造くん」

俺もついつられて

「もしもし、おはようさん、兎さん」「もしもし、おはようさん、兎さん」

しばらくは俺と兎の朝の挨拶と言うか、朝のセッションと言うか・・・


ふと気が付いてみると、兎はもう窓辺にはおらず、残ったものと言えば、いつも通りのちっぽけな俺と、たったひとつの小さなメロディー

そのメロディーに、曲をつけました

題名は

「ある朝高野の交差点近くを兎が飛んだ」


朝の光の中で俺は兎になろう

完全な痛みを求めた時は去ったけれど

まるで将軍の手下のように悪く思われるのがいやで

両手でふざけてみせるくせがついたけれど

内なる世界と外なる世界の果しない国境に立って

いつも飢えた腹をかかえて俺はおまえを待っていた


まるで交響曲のようなおまえの六本の指使い

もどらなくなったピアノのキーにも生命はある

五本糸の魔術師 十の洞窟の探険者

四本の線路にそって 薬売りは走れ

鍵が欲しいね 中程に開いた

湖を開く鍵が 最初の冬の雨までに


力を失った方向と 方向を失った力よ 

仲間割れをおこすな 暗い部屋の中

後姿の泣いている 男たちが輪になっておどってる

金色のしずくで体中をふるわせながら

今まで気付かなかったやさしさと悲しさを求めて

おれの剣よますますのびていけ 熱く 熱く


朝の光の中で 俺は兎になろう

そしてできれば 風にとけてしまおう

寂しさと名のついた自由などさけてしまえ

めちゃめちゃに笑うんだ もういっぺんみちの上

時のカーテンよ待ってくれ俺たちにひらかれるのを

さあ市電よ 俺を乗せていってくれ

ミシシッピー河へ


歌っているのは豊田勇造。

1949年、京都生まれ。洛星高校2年生の時、フォークコンテストに入賞。その後、同志社大学経済学部に入学し、伝説の関西フォークキャンプにも参加。べ平連やフォークゲリラの活動に関わるうちに、仲間が次々とドロップアウトする姿に失望し、大学は中退します。


1972年から75年まで毎週、下鴨一本松のロック喫茶“MAP(1969年に開店した日本初のロック喫茶と言われていました)”でライブを続け、1974年に1stアルバム『豊田勇造 長野隆ライブ』をエレックレコードから発表。


1974年6月6日に大阪毎日文化ホールで開かれたコンサートが1stアルバムに収録され、この「ある朝高野の交差点近くを兎が飛んだ」も収められています。


〈『豊田勇造 長野隆ライブ』 エレックレコード 1974年〉

その後も、関西フォークの中心人物として高石ともや、岡林信康、中川五郎、加川良らとともに活躍しますが、1980年代にはジャマイカ、アメリカ、メキシコなどを渡り歩き、1988年からは長くタイに住んでいたようです。


還暦を過ぎた今も、小さな飲み屋やライブハウスで精力的に演奏する姿は、デビュー以来一貫してブレも飾り気もなく、カッコイイのです(高石ともやほど通俗でなく、岡林信康ほど厭世的でもなく(笑))。


ボブ・ディランのメッセージ性とボブ・マーリーのラスタ精神を備え、京都の土俗的フォークミュージックの本流を歩いているような人物・・・とでもいいましょうか。


京都をタイトルにした曲だけでも、「大文字」(アルバム『さあ、もういっぺん』所収、1976年)、「ジェフベックが来なかった雨の円山音楽堂」(ライブアルバム『走れアルマジロ─拾得ライブ』所収、1977年)、「もしも賀茂川がウィスキーなら」(アルバム『夢で会いたい』所収、2007年)などがあります。


友部正人もそうですが、“本物の人”は、そうやすやすと電波に乗って人の前には現れませんね。


はぁ、もうすぐ、うさぎ年かぁ~。ぴょんっ!