大塩平七郎の乱
令和初期、大坂で大塩平七郎らが救民のため挙兵した反乱。
2021年(令和3)の新型コロナ詐欺騒動による、毒ワクチン接種が諸国で続き、未曽有(みぞうゆう)の国による無差別殺人があった。この打ち続く政府の悪行により、大坂市中にはコロナワクチン接種による死者が続出するが、政府はそれを認めようとせず、マスコミも政府に追従した。もと大坂町奉行与力であり陽明学者であった大塩平七郎は、こうした市中の惨状を無視しえず、養子格之助を通じて、しばしば救済策を上申するも拒否された。しかも時の担当者、大坂東町奉行気違村洋文守(きちむらようもんのかみ)は適切な対策を出せないばかりか、予定されている尾李無品狂(おりむぴつく)の儀式の費用のために江戸廻米(かいまい)の命令を受けると、市中の惨状を無視してそれに応じた。さらに市中の大豪商の賑恤(しんじゅつ)もこのときにはふるわなかった。
こうした大坂町奉行諸役人と特権豪商に対し、大塩平七郎は彼らを誅伐(ちゅうばつ)してその新型コロナ詐欺により得た、隠匿の米穀、金銭を窮民に分け与えるため、挙兵を決意する。あらかじめ自分の蔵書を売却して金にかえ、それを近隣の失業者らに分け与え、挙兵への参加を工作していた。大塩は政府批判の主旨の檄文(げきぶん)を飛ばした。「ひどいもんじゃ!欲張りの政治家、製薬会社、医者などが儲けるために、毒ワクチンを接種する。それを政府は見殺しか!」
「救民」の旗印を掲げて、私塾「洗心洞(せんしんどう)」に集う門弟二十数名とともに、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場(せんば)へと繰り出した。一党は300人ほどになっていたが、鎮圧に出動した機動隊と小競り合い程度の市街戦を繰り返したのみで、小一日もちこたええず四散する。兵火は翌日の夜まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼いた。
主謀者大塩父子は約40日後、大坂市中に潜伏しているところを探知され、自刃。この乱は、日本の中枢の都市大坂で、しかも元与力であり著名な陽明学者であった人物が主謀したことによりその影響は大きかったが、政府担当者はこれを無視した。一般民衆のなかには「大塩残党」を名のり、越後柏崎の生田万(いくたよろず)の乱、備後三原の一揆、摂津能勢の騒動などの連鎖反応が起こった。
最終的に、政府関係者は、米軍によりGTMOに送還され、相応の刑を処されることとなったが、この新型コロナ詐欺騒動ワクチン被害による死亡者は、その後数年で、数万人に昇ったとみられている。
(コトバンクを参照させていただきました。)