晶子ゆかりのイベント
- ○第40回白桜忌
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晶子を偲び、ゆかりの寺「覚応寺」で晶子の命日に毎年開催されるイベント。
会期 令和6年5月29日(水) 午後1時30分~ 場所 覚応寺(堺区九間町東3丁1-49) 講演テーマ 晶子の“風景”をたどる 講師 米川 千嘉子(かりん「編集委員」) 参加費 1,000円 主催 白桜忌実行委員会(電話072-258-0948)
白桜忌の開催については、白桜忌実行委員会へお問合せ下さい。 -
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再録
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2022年 白桜忌
今年も、又、白桜忌ー5月29日が、近づいてきました。
若いころの晶子は、うす紅色の酔楊貴妃という桜を好んだが、晩年は白色の染井吉野の桜を好むようになった。
晶子が逝ってから40年後の、昭和57年5月29日の命日に、堺市九間町・覚応寺で先代住職・河野正伸師により、第1回白桜忌奉讃会式が催された。(正伸は河野鉄南の甥で、鉄南の養子となる)。父、河野鉄南と、与謝野寛・晶子夫妻との親交を大切にし、晶子の20年祭を機に、正伸師が晶子の命日に奉讃会を実行した。
覚応寺は、昭和20年7月の米空軍の、堺市空襲から奇跡的に戦火を免れた。寺は晶子達の青春時代そのままの、明治のたたずまいを今に残している。
正中山覚応寺といい覚如上人に帰依「覚応」と改名した
伊予の豪族河野通元が建てた覚応坊が起源。
住職河野鉄南は与謝野晶子と鉄幹をひきあわせた人で、
境内に晶子の歌碑があり命日に白桜忌が開催されます。
彼女は若い頃に家の近所にある覚応寺の跡取りであった
河野鉄南(こうのてつなん)という青年に出会います。
晶子は浪華青年文学会という文学サークルの会員で、河野鉄南もその仲間でした。
河野鉄南はインテリで心優しく、晶子は恋に落ちました。そして何通もの手紙を彼に送りアプローチします。「このもだゆる少女をあはれと思し、何とぞ早く何とか
仰せ被下度候(くだされたくさうらふ)。二三日も御返事
御待ちもうしてもなき時は、私は死ぬべく候」
なんと情熱的なラブレターでしょうか。早く返事が無いと死ぬとまで言っています。なお、隣があの「萬福寺」ー堺空華派の中心寺院。
【萬福寺住職】性海一名道超、明和二年越中射水郡樂入寺に生れ、後堺萬福寺(現九間町東二丁)の住職となつた。
【堺空華學派の始祖】性海其門に學んで道隱、
柔遠の學説を比較硏究し、 遂に堺空華の一派を爲した。玆に於て、柔遠の派を呼ぶには越中空華の名を以てした。自坊の寮舍及び隣寺には常に數十の學侶之に寓して講筵に陪した。(隣の寺が、覚応寺)
堀口大学も、与謝野晶子ー関係者。
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長岡中学(現長岡高校)を卒業。上京し与謝野鉄幹、晶子夫妻の新詩社に入門
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すでに宗家の通久と予州家の通之の子通元の両勢力が
対立して紛争を続け、両者がおのおの被官・寺社の所領
安堵状を出し、あたかも政令二途に出ずるという感があり、永享二年(一四三〇)の大徳寺文書(資料編一二三四)に「国中錯乱」といわれた。また『満済准后日記』の翌三年(一四三一)八月九日の条に、通久が幕命を奉じて九州の大友持直征伐に出兵せんとした時、通元が通久に対する訴訟をおこし紛糾している旨を記している。
なお通元は、通春の父で民部大輔に補せられた人物である。通久対通元の紛争がどのようにしておこったか、
またどのような経過をたどって幕府に訴訟するように
なったかは他に史料がないのでわからない。想像をたく
ましうすると、すでに家督について両者の間に争論が
おこっていたのかも知れない。
味酒郷(中世)➡(現)松山市味酒町
室町期から見える郷名。温泉郡のうち。
嘉吉2年3月8日の河野通元寄進状(東寺百合文書/編年史4) によると,河野通元が「味酒郷内上方地頭職」 を東寺不動堂に寄進している。また,応仁2年5月18日に, その子河野通春も同地頭職を寄進しているのがみえる( 東寺百合文書/大日料8-1)。 それ以前に当郷地頭職が分割され, 河野氏の所領となっていたことが知れる。 文和元年12月28日の軍勢催促御教書に「味酒山凶徒」 の討伐を河野通盛が幕府から命じられている記事がある。味酒山( 現在の松山城の城山) 上に宮方あるいは足利直冬党の城砦が築かれていたものか。 宝徳3年8月25日の室町将軍家御教書(吉川家文書/大日古2) に,伊予の反幕軍討伐に益田・ 小早川とともに渡海した吉川三郎が当地で戦い、被官数人が負傷した旨が見えている。 -
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