沢庵 宗彭(たくあん そうほう、旧字体:澤庵 宗彭、天正元年12月1日

(1573年12月24日) - 正保2年12月11日(1646年1月27日)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。

大徳寺住持。諡は普光国師、号に

東海・暮翁など。

但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後

赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。

 

 

紫衣事件(しえじけん)は、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされる事件。

また、後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立だった。

 

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江戸時代に、朝幕関係に激震を

走らせた事件が、

紫衣に関するーやったらやり返し

事件。

その背景については、余り、

語られる事がなかったので、

少々、私なりの見解を

記します。

 

基本的なポイントは、相続要件を

満たしているのか?という事。

 

例えば、配偶者や子供が、

父親の遺産を相続する場合なら、

法律要件に合致している事を示す

公的書類(戸籍謄本等)が必要な事は、

自明の理。(ここで、予想もしていなかった

隠し子?がーーーーーーーー、これは

ネットの話し)

 

一般人の場合、こうした書面にて完了

でしょうが、皇室となると、話しは

そんな簡単ではない皇位継承。

過去に、この皇位継承を正当化する為の

三種の神器の可否が問題にされた事が、

2回あり。

最初は、壇ノ浦での平家ー安徳天皇と

共に海底に沈んだとされ、次の後鳥羽天皇

の正当性に疑問が生じ、

このコンプレックスが後鳥羽天皇の暴走に

繋がったとは、巷でしばしば、述べられる

話題。(親鸞も、この神器問題に巻き込まれて、死罪、流罪となった模様)

 

そして、今回の後水尾天皇による、

新しい皇室(南朝)の創設。

(江戸の幕府による公家諸法度

 の対象から外れる様に

 皇室の居場所を画策した模様、

 幕府の方々、ーーーーーー

 うっせえ〜わ、でごじゃる)

 

それが、紫衣ー沢庵の故郷方面。

 

高仁親王(すけひとしんのう、寛永3年11月13日(1626年12月31日) - 寛永5年6月11日(1628年7月12日))は、後水尾

天皇第二皇子。母は中宮・徳川和子。

 

美作後南朝の伝説➡紫衣事件の確執

 

ここで、問題になるのが、

この美作後南朝の正当性。

三種の神器は、どうした?です。

 

で、これが、実は日本の歴史上、

三種の神器ー紛失に関する

歴史の表には記録が残らない

壇ノ浦と、もう一つあった(らしい)

レベルの話し。

 

もちろん、こんな天皇の正当性に関する

議論は、あるはずもないのですが、

戦後、アメリカによる皇室廃止か?

同様、幕府による目の上のコブ除去を

睨んだ後水尾天皇による南朝正統論を

引っ張り出すのだから、江戸幕府や

秀忠が一番驚いた事でしょう。

(おいおい、北朝なんだろ、なんで

 今更、南朝を主張するんだ!)

 

 

で、南朝正当性を担保する出来事とは?

 

南朝保有の神器は、1392年

(元中9年/明徳3年)に足利義満の斡旋による南北朝合一の際に、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に渡った。

 

室町時代の1443年(嘉吉3年)に、南朝の遺臣が御所へ乱入し神器を奪う「禁闕の変」が起こり、剣と勾玉が後南朝に持ち去られたが、剣は翌日に早くも発見され、玉はその後1458年(長禄2年)に奪還された。

 

この1443年ー禁闕の変にて、

三種の神器が、行方不明になったらしい

ーーーーーーーーーーー?

 

で、一体、何処へ、持ち去られたんだ?

 

(つづく)

 

 

参考

 江戸時代ー天台宗

 

 禅宗ー曹洞宗臨済宗

     黄檗宗