徳川幕府と南朝

 

室町時代、足利幕府は北朝ー

持明院統を建前として、

南朝の後醍醐天皇と対立、

武士政権を樹立しましたが、

誤解し易い点として、

徳川幕府も、北朝延長の皇室

を受け継いでいるのだから、

北朝重視だろうと思えますが、

これは、水戸光圀公の言動等

から推測して、?????

 

『大日本史』という本は、

南北両朝に分かれていた頃の

皇統問題に言及し、「南朝が正統である」

とした。そのため、楠木正成や新田義貞

たちが忠臣となり、足利尊氏たちは逆賊と

呼ばれた。しかし、足利3代将軍・義満の

ときに、南朝の後亀山天皇は、北朝の

後小松天皇に「三種の神器」を渡し、

両朝は合一した。そして以後は、

後小松天皇系の天皇が続いて、

今日に至っている。

 

徳川幕府は、新田氏の末裔を名乗り、

南朝排除の姿勢を転換している点、

特に、後水尾院との確執ー火の元で、

注意が必要。

 

確執とは⬇

 

豊臣家が滅亡した後、

公家諸法度等で、皇室への

締め付けを強める幕府に対抗して、

後水尾天皇が伝統を越えたー

皇室サロンの居場所確保の

先手を打った為、

先を越された幕府のメンツが

潰れ、紫衣事件(強制捜査)

➡ならば、後水尾独断での

譲位と続く中、

朝廷支持の声を抑える為、

後年、

幕府では水戸光圀を裏で

遠隔操作する事により、

暗に南朝否定の姿勢を

裏返しの寝技により転換、

 

水戸家と京都(北朝)の軋轢を、

調停する大義名分を作り

ながら(寝技?

 ➡京都に、書肆・小川多左衛門あり)、

実は、(本来の)北朝血筋の

公家に逆に圧力を掛けた模様。

(やられたらやり返し、

 やったら逆にやり返される

 の繰り返しが、

 江戸時代の幕府と京都の

 関係?)

 

一筋縄では、

理解は無理な筋書き?

 

 

 

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小川多左衛門

生没年不詳

江戸前期から近代まで続いた京都の書肆の2代目。名ははじめ信清,のちに方道。本姓は茨木(茨城とも)。多左衛門はその通称で,代々この称を用いる。店は,屋号を小河屋,軒号を柳枝軒という。蒲生君平選『柳枝軒記』(1796)によれば,庭の柳の大樹が軒を覆うほどに枝を垂れていたことによる命名という。また,同記に従えば,その創業は寛永末~正保(1644~48)ころとなるが詳細は不明。 初代の方淑(生年不詳~1701)は,丹波より出て店を開いたといわれ,貞享2(1685)年には『新編鎌倉志』12冊を刊行。水戸徳川家の蔵板書の支配を務め,以来その製本・販売を委ねられることとなり,以後の揺るぎない地位の基礎を築いた。 2代方道は貝原益軒の著作を多数出版したことで知られる。『楽訓』『家道訓』などの教訓書や,実用書『万宝鄙事記』などのほか,正徳2(1712)年から享保6(1721)年にかけては,写本『東路記』『己巳紀行』の2書を巧みに編集して『木曾路記』『諸州巡覧記』など,一連の紀行・地誌類を刊行した。