みなみたくやさん
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習気
何らかの存在や行為により、その場に
残される影響をいう。
特に煩悩を断じたのちも残存する煩悩の
余勢を意味する。
伝統によって、「じゅって」「じゅっき」
「じゅっけ」などとも読む。単に習ともいう。
『大智度論』二七では、
難陀尊者が淫欲の習気のために阿羅漢道にあっても
女性を意識したことなどを挙げる。
➡だから、「河野悦子ー既婚です」
12月は雨。。。。。。。。
もちろん、これは、
女性よりも、男性の方が、
深刻、私の福山雅春。
かつての中森明菜さん。
コンサート後に、お腹に自傷。
で、あの伝説でしょ、
「安珍と清姫の物語」ー 道成寺
の因縁。
制服のボタンが卒業で失くなる
のは、もちろん、限られたモテキ
さん
ー福山さんやキムタクさん、山Pさん
などなど、だけで、
ブサイクな私には関係ない
ですがーーーーー。
千の顔(策)を持つ海千山千
ーーー百変化の男・Mr.Shinran
声聞や縁覚には完全に断ずることはできず、
仏のみこれを滅するという。
豆単集ー天台諸文類集
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2019/10/31ー京都 閲覧本
① 法華十妙不二門示珠指
(巻上巻下ー合冊)
丹丘沙門 源清 (述)
正保3年仲冬(1646年)
中村五兵衛(重刊)
新光太平山 善昌寺 ◯峯
36世 興宗元道 求之
(手書きー旧蔵)
群馬県桐生市新里町新川
善昌寺は、大同元年(806年)
伝教大師 最澄が上野へ下向の際、
先達であった宥海によって創建され
大同寺と称したとされています。
その後に船田長門守善昌にちなみ
善昌寺と称するようになりました。
善昌寺の五輪塔群(云新田義貞首塚)
市指定重要文化財(桐生市)
新田義貞は、越前藤島の合戦で無念の最後
をとげ、その首級を桃井次郎が密かに持ち
帰って重臣の船田長門守善昌に預けました。
善昌は、主君の首級を手厚く葬り、
供養のためこの寺で生涯を終えたと
いわれています。
永禄7(1564)年、随風 (天海大僧正) が、兼学の
禅客/道器がいると聞き、親友/亮諶とともに師事した。
大仏頂経の講演に接し涙を流して感動したと云う。
朝に首楞厳経、夕に易経を聞き、寝食を忘れる
ほど学問を吸収する。
永禄9(1566)年、懇願され善昌寺の住職
(塔頭の1寺、長楽寺の末寺とも) となる。
初めての寺持ちであり、出家して20年の歳月が
流れていた。
「慈眼大師の住したまう寺なり、
関東にて寺を持ちたまうは当寺なり
/新編上野国誌」
大河ドラマー「太平記」
- 船田入道
- 演:花王おさむ 義貞の執事
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(所蔵機関)
・大谷大学蔵本ー「獅子窟藏」の蔵書票貼付
・龍谷大学大宮 蔵本
ー「享和元酉稔冬十月調之/阿陽山口沙門/龍秀」
印記:「阿南冨岡郷長善寺不出」
明王院長善寺(高野山真言宗)
ー徳島県阿南市才見町平野
・京都大学ー蔵経
(唐)湛然の『法華玄義釈籖』の中の一節を
別行した『十不二門』の最古の註釈書。
別行本(十不二門)の名称には異名が多く、
本書の撰者源清は「法華十妙不二門」
とし、上巻においてその七字の題目を釈している。
下巻において分科を示した後、本文を細釈している。
源清の詳細は不明。 (大谷大学)
源清
一〇世紀頃、生没年不明。中国宋代の天台学僧。
慈光晤恩(九一二—九八六)に師事して天台を学び、
銭唐(浙江省杭州市)の奉先寺に住した。
雍熙三年(九八六)に『十不二門示珠指』二巻を
著し、天台止観を独自の「真心観」をもって解釈し、
後の山外派の動きに対して大きな影響を与えた。
真心観はいわゆる唯心実相の原理であり、智顗が
主張する三法無作の認識とは異なり、心・仏・衆生
に能所の関係を認めたことは、のちに知礼から
批判された。 (小林順彦)
龍谷大学 大宮 所蔵本
十不二門文心解
(宋)仁岳述
武村市兵衞昌常 : 村上勘兵衞元信
: 山本平左衞門常知 : 八尾甚四郎友春,
法華
寛文10年 [1670年]刊行
「阿南冨岡郷長善寺不出」
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2023/2/20ー落札分
① 大乗止観宗円記 巻5 (全5巻中)
宋ー了然 (述) 総52丁
慶安2年(1649年)刊行
書林名ー削除
佛蔵文庫(蔵書印ー旧蔵)
無為窟蔵(抹消)
増上寺学寮「無為窟」で学ぶ人びと
: 近江国八幡正福寺・
同国水口大徳寺
・京樋口善導寺の結節点
(森山清徹教授古稀記念号)