憬興師の云わく、

「由疑仏智、雖生彼国、

 而在辺地、不被聖化事、

 若胎生、宜之重捨」

(述文賛)已上

  親鸞ー「浄土三経往生文類」より

 

かいつまんだ理解ですが、

まあ、常識でも、以下、

こうした心理が、

特に女性側には働くのでは????

(ただし、引用文は、

  「教行信証」ではなく、

   「浄土三経往生文類」ー阿弥陀経、

     難思難思の往生、

     さよーなら父さん

      またいつか ですが、

   しかも、

   流転?の半島僧侶ー憬興だから

   こその弁でしょうがね、

   よくよく知るべし)

     ⬇

辺地ーーー>側室の子が住する場所

 

仏智を疑う

  ーーーー>本妻ではないんでしょ、

       どろぼう猫の子なら、

       江戸(東京)ではなく、

       伊那の山奥(辺地)

       隠れ里でしょ。

      (側室の子なんて、

       厳重に密封の上、廃棄せよ

       が、原則論、

      現代では、全く通じない

      道徳習慣ー人の命よりも、

      秩序優先の江戸時代)

 

仏智を疑う罪深し(疑情)

   ーーーー>不倫の子なら、

     そりゃ、罪は深いでしょ。

     (子に罪はないけどーーーー)

 

 

保科正之(辺地の人)
慶長16年(1611年)5月7日、2代将軍・徳川秀忠の四男(庶子)
として誕生。母は静(志津、後の浄光院)で、秀忠の乳母

・大姥局の侍女で、北条氏旧臣・神尾栄嘉(かんお さかよし)

の娘(『以貴小伝』・『会津家世実記』)、

もしくは武蔵国板橋郷竹村の大工の娘(『柳営婦女伝系』)である。幼名は幸松丸。

秀忠は慶長15年(1610年)2月から3月、

慶長17年(1612年)3月から4月には駿府へ

赴いているほか江戸近郊で鷹狩を

行っており、静の妊娠はこの間のこと

であると考えられている。

近世武家社会においては、

正室の体面・大奥の秩序維持のため

侍妾は正室の許可が必要で、

下級女中の場合にはしかるべき家の養女

として出自を整える手続きが必要で

あったと考えられている。

また、庶子の出産は同様の事情で

江戸城内で行なわれないことが

通例であった。

母・静は、神田白銀町にある姉の

夫・竹村助兵衛次俊の屋敷にて出産した

(「会津松平家譜」)。

慶長18年(1613年)の春からは、

武田信玄の次女で穴山信君の正室

だった見性院の田安屋敷に移り、

そこで養育された。

正之の出生は秀忠側近の老中・土井利勝

や井上正就他、数名のみしか知らぬこと

であり、異母兄にあたる家光さえも

当初は知らなかった。