「教行信証」入門(第3回)

     by Mr. Shinran

 

 

親鸞 三善氏(恵信尼) 

   那須氏(寒河尼

       ー頼朝の乳母、姉御色)

    ー初期真宗教団の中枢を担った

     一勢力に那須家もあり。

   特長ー那須の与一

      飛び道具が得意な血筋。

      (半島からの移住組?

       百済?新羅系

         半島僧ー憬興)

 

 

真宗木辺派⬅那須氏

 

親鸞聖人が関東から京都に還ろうと

された途中に、

この天安堂に歩みを留められ

ました。(1235年聖人63才)

地頭の石畠氏(那須氏の一族)をはじめ、

近在の人々が聖人のお通りを伝え聞いて

馳せ参じ、ご滞在を乞いました。

 

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那須氏と安藤氏

 

浄妙寺 歴史

 

松日山 浄妙寺
 茨城県ひたちなか市阿字ヶ浦町

 

 

開基は 那須与一で有名な那須氏6代当主

那須 資村(なすすけむら)、僧名ー信願房

 

資村31歳の時、親鸞聖人に帰依し稲田(笠間市)

の御安室を訪ね、法名を信願と賜る。(1223年)

 

信願81歳で入滅し、信願に帰依した安藤清信によって

光泉信願堂が建立される。(1273年)

 

三河国浄妙寺14代超淳の弟超義(当山2代信空)によって

信願堂が再建される。(1505年)

 

 

真宗大谷派 稲荷山 浄妙寺。
開基の信願房は、親鸞聖人の直弟で、

俗名は藤井八郎信親といい、正嘉2年(1258)に赤渋に

一道場を建立した。これが浄妙寺の開創である。

10代目慶順は蓮如上人に師事して真宗再興に寄与し

延徳3年(1491)3月23日晩年の上人から自画自賛の

寿像を授けられた。

三河真宗5カ寺の一つになった。

14代目順超は織田との戦いで戦死したので、

その妻松平信忠の息女で、家康の大叔母にあたる宝憧院は、寺を継ぎ、松平広忠から天文15年(1546)

4月15日付で上和田の天白に広大な寺域と

堂宇の寄進をうけ寺を再起し天白殿と称した。

しかし、50年後、慶長8年、12年の

2度の天白切れ(矢作川の洪水)で流失して

現在の地に移る。

15代目勝奥は一生俗形で徳川家との関わりをもち

永禄一揆には微妙な立場にあったが、

その兄弟たちは静岡 水戸 前橋などに

寺を築いている。

一揆後20年、真宗は三河から追放されたが、

この寺は檀家が各地に分散してあるのは、

その歴史の古きを物語っている。

境内の大楠は徳川三代将軍家光の大老 土井利勝の

母の墓木として植えられたもの。

現本堂は嘉永6年(1853)に再建された。

 

 

勝栄寺(西本願寺)

滋賀県米原市柏原字瀬戸村

延長8年(930年)3月、字野瀬ヶ原に

あった真言宗の草庵の庵主・浄蔵に

よって創建された。

永正10年(1513年)2月、

那須宗勝が出家して浄祐と名乗り、

再興。那須氏 代々住職、連綿す。

 

 

八幡神社(那須城跡)と称名寺

この境内の辺りには、石畑宗信という武将の城跡でした。石畑の地名がこの武将からきたことが分かります。宗信は源平合戦の屋島の戦いで扇の的を射止め、弓の名人として名高い那須与一の次男でした。宗信は、この辺りを支配していた佐々木氏(観音寺城・安土町)の旗頭で、この石畑と木部(野洲郡)の領地を治めていました。八幡神社は、宗信が1239年(平安時代後期)に京都の岩清水八幡宮の応神天皇の分身を奉り建立しました。また、近くの称名寺は、宗信が晩年になって親鸞聖人の弟子となり出家して1258年に建立したものです。この寺の住職さんはそれ以来、那須の姓を名のっています。

 

那須城ー<沿革>

  源平屋島の合戦で有名な那須与一宗高(宗隆)の

  次男宗信(宗伝)が、石畑民部大輔を名乗り

  築城したと伝わる。以後那須氏代々の居城となる。
  延応元年(1239)には、石清水男山八幡に勧請し、

  城内に八幡宮を建造した。
  ただし、那須氏は下野国に下向して以降しか

  有用な史料には登場せず、那須与一そのものが

  歴史学的には存在が立証できないため、

  どこまでが事実かは特定できない。

 

 

 ➡秋田 手形山

    太子神社

 

    正洞院ー那須氏の血筋

 

 

ー米原 中多良・願乗寺(西本願寺)

 

推古天皇の治世、仏教に篤く仏法僧の三宝を崇敬

していた推古天皇により、天台宗の薗花寺として

創建された。後鳥羽天皇が名越に逗留していた

ときには、天皇と近隣の娘との間に生まれた子

が住職を務めたこともあった。
応永19年、住職・願善が蓮如上人に帰依して

浄土真宗へと改めた。
現在の境内はもともと薗花寺の墓所であり、

薗花寺の境内は田地となっている。

 

 

宮崎県の伝説では

「椎葉さん」と「那須さん」 

椎葉村の名字が語る、村最大のロマン

      ⬇

やがて那須大八郎(那須与一の弟)は、
平清盛の末裔である鶴富姫と恋に落ち、
姫は子を宿しました。そんな最中、

幕府から大八郎に鎌倉へ戻るよう命が下されます。

敵の子孫である鶴富姫を連れてはいけない大八郎は、

後ろ髪を引かれる思いで村を去る際こう言い残しています。

「生まれた子が男なら、我が故郷下野(しもつけ)

 の国へ、女ならこの地で育てよ。」

 鶴富姫は女の子を産み、椎葉で育て上げました。

そして、大八郎への思いを胸に、後に娘婿をとって

「那須」姓を名乗らせたのです。