「教行信証」入門(第1回)

      by Mr. Shinran

 

浄土真宗の開祖ー親鸞の主著として

伝承される「教行信証」。

大変難解な仏書としても、

有名ですが、少し掻い摘んで

記しておきます。

 

世の中、複雑な様相を秘めた

出来事を説明する場合、

主人公だけ追っていても、

見えてこないケースは、

よくある話し。

そうした場合、脇役の動きに

それとなく目を移すと、

おや?と思う事、ありませんか?

(映画やテレビドラマ見ていて)

 

「教行信証」にも、同じ様な

風景がありまして、

仏教の他派と異なり、真宗では、

「一切の神祇礼拝を認めない」、

「肉食妻帯は認める」という

独自路線色がある為に、儒教や

キリスト教等で語られる

倫理観と大きく外れる所が、

多々あります。(場合によっては、

下の話しが真宗?の曲解)

 

当然、神社には近づかない、

魚などの肉を食べてもよし、

結婚も問題なし、女性が仏門

を求めても、なお、ようこそ

ようこそ、真宗の世界へ、

(別に布教するつもりは

 ありませんがーーーー、

 ただし、自身は現代での

 倫理観は理解しています

 ので、誤解なき様に、

  「善人なおもて、

    況や、悪人をや」

 と語られる「教行信証」

 の背景を述べるだけです)

 

こうした生き残った少数

民族でのみ通じる(如き)思想

ある意味での浄土思想)を

ベースにした伝統ー七高僧の

内容だけ見ておりましても、

その全てを己証にて、逆転

させた親鸞の親鸞たる由縁が

不明でしょ。

そこで、主人公レベルの七高僧

から、少し離れて、

傍依の脇役に視点を変えて

みましょう。

 

例にはならないでしょうが、

あの有名な芸能人(7高僧)、

実は、在日の血筋だった?として、

その芸能人の姿や情報だけ

見ていても、そんな話し、

どこにもない!ーーーーでしょ。

(もちろん、ご本人は、😷

 

 

で、第1回目として、

百済(新羅)僧ー憬興から、

見える「教行信証」。

何故、憬興なのか?

 

と、言いましても、

そもそも、「憬興」という

半島の坊さんって、誰?レベル。

 

まず、通説レベルの紹介、


憬興(きょうごう、生没年不明)は、

新羅の人で法相宗の僧である。

7世紀後半の人だとされるが、

詳細は不明。

神文王の命により、国老の地位につき、

三郎寺に住して、国政に助言を行った。

玄奘や基などの系統に属し、

唯識説や、浄土教に関する経論の注釈

を多く書いた。


『無量寿経連義述文賛』3巻 

 ー 『述文賛』と、略称される。

 

源信は『往生要集』において、

『無量寿経連義述文賛』を引用している。

引用箇所は、『無量寿経連義述文賛』の書名

ではなく「憬興師云」・「興云」

・「憬興師疏」と記されている。

      ⬇
親鸞は『教行信証』や

『浄土三経往生文類』

において、『無量寿経連義述文賛』を

引用している。

引用箇所は、『無量寿経連義述文賛』

の書名ではなく「憬興師云」と

記されている。

 

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憬興

生没年不明。神文王元年(681)に

新羅の国師に任命されるため、

7世紀頃の人と考えられる。

けいごうとも読み、璟興とも書く。

百済出身であるが新羅で活動した学僧。

唯識・法相学を中心に、経・律・論の

あらゆる分野にわたって注釈書を著した。

40部以上もの著書があったとされるが、

その大半が散逸し現存しない。

著書『無量寿経連義述文賛』は、

浄影寺慧遠・吉蔵・元暁の注釈と

並ぶ『無量寿経』の四大注釈とされ、

親鸞の『教行信証』にもしばしば

引用される。 【執筆者:山中行雄】

 

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まず、教行信証ー行巻から、引用。

 

『十住毘婆沙論』(入初地品)にいはく、

「ある人のいはく、〈般舟三昧および

大悲を諸仏のと名づく。この二法より

もろもろの如来を生ず〉と。このなかに

般舟三昧とす、また大悲とす。

ーーーーーーーー

に過咎なければ清浄なり。

 

 『安楽集』(上巻)にいはく、

「『観仏三昧経』にいはく、

 父の王を勧めて念仏三昧を

行ぜしめたまふ。

 

 ーーーーーーーーー

 

栴檀といふは、衆生の念仏の心に喩ふ。

わづかに樹とならんとすといふは、

いはく、一切衆生ただよく念を積みて

断えざれば業道成弁するなり。

 

如来つねに三昧海のなかにして、

網綿の手を挙げたまひて、

父の王にいうてのたまはく、

〈王いま座禅してただまさに

 念仏すべし。

 

◯◯家

  ー父(王) 

    ーーーー>浄飯王、頻婆娑羅王

   母  

    ーー>マーヤー夫人、韋提希夫人

 

行の巻に説示されているのは、

「父王」が中心です。(当然ですが)

 

平安時代の藤原道長の例を出すまでも

なく、臨終に念仏三昧して、

五色の糸に導かれ、極楽浄土に

往生するーここが、行巻の出発点。

(七高僧の光景)

 

 

五色の糸は臨終行儀と関連するが、

源信『横川首楞厳院二十五 三昧起請』

や良忠『看病用心鈔』などでは「糸」

ではなく五色の「幡」を用いるとし、

覚鑁『一期大要秘密集』

では五色の幡もしくは五色の糸

用いるとする。

 

この「五色の糸」の由来については、

七夕等との関連が説明されますが、

臨終での作法を考慮すると、

仏教上では、たぶん、

「五智」及び「五徳瑞現」談義が、

かなり影響している様にも思われます。

 

教行信証ー教巻 引用

   ⬇

憬興師云<ーーーーー「五徳瑞現」
今日世尊住奇特法

{依神通輪所現之相。

 非唯異常。亦無等者故}
今日世雄住仏所住

{住普等三昧 

 能制衆魔雄健天故}
今日世眼住導師行

{五眼名導師行。

 引導衆生無過上故}
今日世英住最勝道

{仏住四智。

 独秀無叵叵故}
今日天尊行如来徳

{即第一義天。

 以仏性不空義故}

 

 

源信ー往生要集 引用⬇

問ー仏智等といふは、その相いかんぞ。

答ー

憬興師は、『仏地経』の五法をもつて、

いま五智と名づけたり。 いはく、

清浄法界を仏智と名づけ、大円鏡等の

四をもつて、次いでのごとく

不思議等の四に当つるなり。

  ーーー ーーー

以上の様に、

かなり個性的な側面を秘する

傍依の百済僧ー憬興師ですが、

どんな僧侶だったのか?

少なくとも、僧侶なので、

百済での身分も、かなり高位

だった事が推定されます。

新羅に移り、三郎寺に居住する、

神文王元年(681年)、

国師・国老に、就任。

生国ー百済滅亡により、本来、

行き場がなくなるが、ーーーー?

ライバル関係?の華厳宗・元暁

ー『大無量寿経宗要』を意識して

いたか?

国師・国父ー憬興?

(根拠は、高麗時代・一然作による、

 高句麗➡高麗 

   西京、現在の平壌 系統)

 

新羅中代初期の仏教政治の理念

 元暁と憬興を中心として   

      金 相鉱 (著)

    ⬇

https://www.jstage.jst.go.jp

  /article/ibk1952/50/1/50_1_256

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