大河ドラマー「親鸞傅」より、

一言。

 

阿波局(北条政子の妹筋、実朝の乳母)あれば、

阿波聖人(物部の神器)あり。

ーーー両名「三種の神器」 

     の口封じ 也。

 

ただし、ただし、全てを知る政子

  鎌倉の御家人集めて、

   大音声、「何を恐れる御家人衆」!!!

  詳細は、「親鸞傅」にて脚本。

 

本名ー成覚房幸西なり。

幸西(こうさい、長寛元年(1163年)

 - 宝治元年4月14日(1247年))は、

鎌倉時代前期の浄土宗の僧。房号は成覚房。

一念義を説く中心人物。

始めは延暦寺西塔の僧で鐘下房少輔と

称して、天台を修学した。

建久9年(1198年)に遁世して法然門下となった。

元久元年(1204年)の「七箇条制誡」

では15番目に署名をしている。

また、建永元年(1206年)の興福寺が

院に訴えた中にも、幸西の名が

挙げられているなど、法然門下と

して活発な活動をした。

結局、承元元年(1207年)法然が

土佐に流罪となった建永の法難

では阿波に流罪となった。

しかし、慈円の預かりで流罪は免れた

ともいわれる。さらに、法然没後の嘉禄3年

(1227年)におこったいわゆる嘉禄の法難

では、枝重と改名して壱岐に配流となった。

これについても、壱岐には弟子を遣わし、

幸西自身は讃岐にあったとも伝えられている。

その後赦され下総国栗原で念仏を

布教したという。

幸西は、一声の称名または一念の信で

往生が成就するという一念義を主張した。

 

『醍醐本法然上人伝記』によれば、

勢観房源智上人は幸西成覚房から

『選択集』を借りて書写したとある。

 

親鸞の先輩であり、慈円僧正に近い

僧侶。あの、成覚房幸西ーアワアワ。

阿波局同様、家系が伝承されず、

父母が誰か不明?

阿波と呼ばれるなら、平家筋か?

過去のMy ブログー物部筋か?

西山ー善恵房証空同様、慈鎮預かり。

史料は、何故か、「金沢文庫」に

数多く残存する。(下総国栗原の滞在?)

(親鸞は、法然没後、

 帰洛せずに、関東へ

 逃げる➡「三種の神器」関係の

 口封じを恐れる)

 

後鳥羽院の御宇、法然聖人、

他力本願念仏宗を興行す。ときに、 

興福寺僧侶、敵奏のうへ、御弟子の

うち、狼籍子細あるよし、無実 の

風聞によりて罪科に処せらるる

人数のこと。

一 法然聖人ならびに御弟子七人、

流罪。また御弟子四人、死罪 に

おこなはるるなり。聖人(法然)は

土佐国幡多という所へ流罪、 

罪名、藤井元彦男云々、

生年七十六歳なり。

親鸞は越後国、罪名、 藤井善信云々、

生年三十五歳なり。


 浄聞房 備後国、

 澄西禅光房 伯耆国、

 好覚房 伊豆国、

 行空法 本房 佐渡国、

 幸西成覚房・善恵房二人、同遠流に定まる。

 しかるに無動寺の善題大僧正、

 これを申しあづかると云々。

 遠流の人々。 以上八人なりと云々。

 

    ーーー ーーー

 

成覚房幸西ー宝治元年4月14日

(親鸞ー70代半ば頃)

(物部の幸西ー一念義) 

  下総に物部の子孫あり 千葉県四街道市物井
 

晩年は、ーーーー

その後赦され下総国栗原現在の(千葉県船橋市)で

布教したという。(親鸞帰洛後?)

 

宝治合戦は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。

執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年

(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、

北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる

 

法華堂に集まった三浦一族は、頼朝の御影の前に整列し、毛利季光が法事讃を唱えたのだという。最期の様子は、法華堂の天井裏に潜んでいたという承仕法師によってその凄惨さが伝えられているが、中でも三浦光村は自らの顔を刀で削り正体をわからなくしてから自刃したのだと伝えられている。

 

名越の三浦氏と成覚房幸西

(没後、2か月で異変あり

   続・鎌倉の13人 談話)

  

 

親鸞と幸西
 ー親鸞は、西塔の聖光院、

  西塔常行堂の堂僧を長く務めたともいう。

  聖光院跡の碑、親鸞がかつて修行した寺跡という。

  (後年の法難ー神器捨て石の2人?)

「神器なき即位」後鳥羽院ー隠岐に配流され、

1239年(延応元年)に同地で崩御。

(平清盛ー執権北条氏)

 

 

幸西 伝承される著述

「京師和尚類聚伝 ( きょうしおしょうるいじゅでん )」

 

「観無量寿経玄義分抄

 ( かんむりょうじゅきょうげんぎぶんしょう )」

建保6年成立

 

【写】大谷(明暦二写),大正

【複】〔活〕戊午叢書二・玄義分抄(大正7年)

 

「略料簡一渧記 ( りゃくりょうけんいったいき )」

 

幸西(こうさい、長寛元年(1163年) - 宝治元年4月14日(1247年5月20日))は、鎌倉時代前期の浄土宗の僧。

房号は成覚房。一念義を説く中心人物。

始めは延暦寺西塔の僧で鐘下房少輔と称して、天台を修学した。建久9年(1198年)に遁世して法然門下となった。

元久元年(1204年)の「七箇条制誡」では15番目に

署名をしている。また、建永元年(1206年)の興福寺が院に訴えた中にも、幸西の名が挙げられているなど、

法然門下として活発な活動をした。

結局、承元元年(1207年)法然が土佐に流罪となった建永の法難では阿波に流罪となった。しかし、慈円の預かりで流罪は免れたともいわれる。さらに、法然没後の嘉禄3年(1227年)におこったいわゆる嘉禄の法難では、枝重と改名して壱岐に配流となった。これについても、壱岐には弟子を遣わし、幸西自身は讃岐にあったとも伝えられている。その後赦され下総国栗原で念仏を布教したという。幸西は、一声の称名または一念の信で往生が成就するという一念義を

主張した。

 

長寛元年—宝治元年四月一四日。房号は成覚房、阿波聖人とも。法然の弟子で一念義を主張。もと天台僧で鐘下房の少輔と呼ばれたが比叡山での活動は不明。『四十八巻伝』二九に「比叡山西塔の南谷に、鐘下房の少輔とて、聡敏の住侶在りけり、弟子の児に遅れて、眼前の無常に驚き、交衆懶ものうく覚えければ、三十六の歳遁世して、上人の弟子となり、成覚房幸西と号しける」(聖典六・四五三)とあるのがわずかな手がかりで、西塔南谷の住侶であったが建久九年(一一九八)三六歳で法然の弟子となったらしい。法然のもとで浄土宗を学び、『選択集』を所持したことも『醍醐本』から判明する。元久・建永ごろから頭角をあらわし、元久元年(一二〇四)『七箇条制誡』では一五番目に署名。同三年興福寺は朝廷に専修念仏停止ちょうじを訴え、法然や幸西・行空らの罪科を迫る。建永二年(一二〇七)朝廷は弾圧を決定して建永の法難がおこり、『古徳伝』七によると幸西は物部の俗称で阿波へ流罪となる。ただし『歎異抄』奥書に慈円が幸西と証空の身柄を預かったという。証空は慈円との関係が深いが、幸西とは繫がりを示す史料がなく明らかでない。後の嘉禄の法難(一二二七)で山門(比叡山)は専修念仏の張本人として隆寛・幸西・空阿の三名を朝廷に訴え、幸西は壱岐へ配流(薩摩とも)となる。配流地へ赴いたかは不明で讃岐大手島にいたとの情報もあり、山門は朝廷へ検知するよう訴えている。二度の法難で弾圧されたように浄土宗の中では急進的な位置にいた。(善裕昭)

 

  ーーー ーーー

 

なお、物部関係では、

四国への通過場所?

  ⬇

貝塚市

古代には半田周辺に渡来系氏族である

秦忌寸一族がおり、

道教寺はその氏寺であったとされ、

久保付近には

安幕首一族がおり、物部氏の支族と

考えられている。

 

中心市街地の貝塚は、中世末に

一向宗願泉寺を

中心として発展した寺内町で、

ーーーーーーー

 

阿理莫(ありまか)神社

物部氏の後裔で、この地の

豪族・安幕首が、物部氏の

始祖である饒速日命を祀る

神社として継体天皇

元年(西暦507年)に創建した

とされている。

明治40年代に麻生郷地域各神社を合祀し、

麻生郷の氏神様として崇敬されている。

境内にはそのとき移された

灯籠や狛犬などが残されている。

 

 

  @@@  @@@

 

今更ながらの蛇足ですが、

 

戦前の安芸、有力門徒???でしょ、

でなければーーーーーー。自民党。

(安倍さんの切り崩し、教会?)

どうでしょ?????

お寺は、どこ?

広島県賀茂郡西志和村か。

(なるほど)ー森鴎外。

     ⬇

岸田文雄首相は、祖父の正記氏、

父の文武氏の後を継ぎ、

3代続けて衆院議員になった。

父方の叔母の夫は元広島県知事

で参院議員、法相を務めた宮沢弘氏。

弘氏の兄が元首相の喜一氏に当たり、

広島県政界きっての政治家人脈を

築いている。

 

先祖は、「報専坊の門徒」か

志和町奥屋の報専坊 也。

  ➡神棚卸しの「慧雲」

 

宮澤さんの本籍は、

広島は、福山市金江町金見か。

(まあ、こちらもーーーー)

 

真言宗寺院、真宗寺院 と。

 

浄土真宗 松慶山 大東坊

福山市金江町にある浄土真宗松慶山大東坊 元江洲本行寺末

本尊は阿彌陀如來で貞享元年の創建なり。明光上人ー

中國地方、弘通の時、將軍源頼朝洛中警護の為家臣六人を巵從せしむ六人其の高徳に服し剃髪して師資の約を結び、

眞佛•西圓•重圓•性明•佛性•了法と號す、之を明光上人隨身の六房と云ふ。上人六房を

建て之を六人に與ふ。

 

最明坊ー福山市金江町藁江

 

明光(みょうこう、めいこう、生没年未詳)は、浄土真宗の僧。親鸞の高弟

で六老僧の一人。父は藤原頼康、母は

源義朝の娘。

 

慈鎮の弟子となり、源頼朝の菩提寺である鎌倉最宝寺の住職となったのち、親鸞の

弟子となった。光照寺や宝田院を開いた。もとは天台宗の僧であった。

一説によると、明光は浄土真宗に改宗したものの、親鸞より後代の人物という。

 

頼朝と親鸞は、結構、吉光御前?

根拠に乏しく否定する説もあるが、

伝説では親鸞の母は「吉光女」

(きっこうにょ)とされている。

吉光女は、源為義の子であるという説

や、源義親の子とする説など諸説ある。

 

「三種の神器」にまつわる色々。