「菊花紋と信長」

   ー本能寺の変

 

大河ドラマ

 異説ーキムタク信長、

     その父 信秀。

  織田信秀➡キムタクでも?

 

織田信秀(信長の父)ー菊花紋

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佐久間一族と浄土宗

 

鶴林山 仙松院は、浄土宗

西山禅林寺派の寺院

 

本尊は約400年前に作られた

阿弥陀如来と伝える。
山門は江戸中期の平唐破風の

造りと云う。

 

 

伊勝八幡宮(いかつはちまんぐう)
 古くから伊勝村の氏神様として崇敬される

伊勝八幡宮は、熱田神宮とほぼ同じ時代に

創建されたと言われています。
主祭神は品陀和気命(ほむだわけのみこと)です。
拝殿に陶製の狛犬がある。瀬戸で焼かれたもので、

陶工加藤丈右衛門が奉納したと伝えられている。
 文化財の狛犬は瀬戸で焼かれた陶製で、室町時代

のもので底部に応永二十五年(1418)の墨書きがある。

現在は名古屋市博物館に保管されています。

現在は県指定文化財ー名古屋市博物館に

保管されています。

 

 

宝珠院(ほうしゅういん) 福聚山 曹洞宗
 寛永年間(1640年頃)に創建された。
本堂には本尊の福聚延命地蔵菩薩のほか

庚申像があり、境内には秋葉堂、石仏

三十三観音、役行者像、不動明王像などが

あります。また、平成21年(2009)に

伊勝小学校北門前にあった的場の観音様

と弘法様が、境内に祀られました。
 佐久間玄蕃盛政(初代金沢城主)の

伊勝城址と云われている。

 

 

東宝寺ー浄土宗西山禅林寺派 菊花紋

 (南区名鉄ー桜駅)

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山崎城は現在の安泰寺境内にあたる場所と伝えられ、

この地は旧称、山崎字羽城と呼ばれていました。

城主は蔵人浄盤、次に加藤弥三郎、最後に

佐久間信盛でした。

安泰寺は、山崎城の廃城後に桜の宝珠庵が

移ってきて宝珠山安泰寺ー菊花紋

となりました。

 

東宝寺の親寺(胴元)

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祐福寺(ゆうふくじ) ーーー「菊」の御寺

浄土宗西山禅林寺派     菊花紋

玉松山(山号) 般若院(院号)
 祐福寺は源頼朝の家臣で下野国の武将

だった宇都宮頼綱が,建久二年(1191)に

草庵を結んだのが始まりと云う。

その後荒廃しますが,加藤空明と

小野田阿願が,嘉慶二年(1388)に

美濃国から達智上人を招いて再興した。
室町時代には後奈良天皇の勅願寺となり,

足利氏の帰依も受けて発展し,その後も

織田信長や徳川家康,尾張徳川家などの

庇護も受け、永禄三年(1560)の桶狭間

の戦いの前日には,今川義元が寺を訪れ

戦いの運命を願ったと云う。


 鐘楼堂を備えた山門(仁王門)は

明治二十五年(1892)建築です。
 堂内には平安時代後期作という

十一面観世音菩薩立像(町文化)が安置。
 本尊として祀られている

阿弥陀三尊来迎図(町文化)が祀られています。
 阿弥陀堂には徳川家康寄進と伝わる

阿弥陀如来像が安置されている。
 毘沙門堂には毘沙門天立像(町文化)

が祀られている。
 不動堂(護摩堂)には不動明王や

秋葉大権現像(町文化)が祀られている。

 

勅使門は、後奈良天皇の勅使を迎えるために

造営されたものであり、扉には、菊花紋が

付けられている。地方には勅使門の類例が

少なく、保存状態もよいことから貴重な

遺構となっている

 

脇仏の善導大師像は知多郡豊浜

(現在の南知多町、光明寺がある地)

の漁師が海から拾ったものと言われる。

 

 

櫻 誓願寺 縁起

当山は、正式には〈法喜山 陽受院 誓願寺〉

と号し、開山上人お手植えの菊桜に因んで

〈櫻 誓願寺〉とも称されます。
京都にある永観堂禅林寺を総本山とする

浄土宗西山禅林寺派に属するお寺です。

 

古文書によると、久安2年(1146)に三論宗

の僧侶である永澄上人が、中島郡(現在の

稲沢市)に創建とありますが一時廃絶します。

その後、元亀3年(1572)に比叡山での

学問修行を終えた空範天室上人によって

清州(現在の清須市)に浄土宗寺院として

再建されました。
慶長14年(1609)から元和2年(1616)に

かけて徳川家康公によって行われた

清州から名古屋への都市移転事業

〈清州越し〉の際に、現在の

名古屋市中区白川町(当時は南寺町)に

移転しました。

 

阿弥陀寺(あみだじ)は、京都市上京区に

ある浄土宗の寺院。山号は蓮台山。

院号は総見院。本尊は阿弥陀如来。

織田信長の墓があることで知られる。

 

天文24年(1555年)に浄土宗の玉誉清玉

が、近江国坂本に創建したのが当寺

の始まりである。その後、清玉は自身と

縁のある織田信長からの帰依を得ると、

上京の今出川大宮に寺基を移す。

天正10年(1582年)6月2日に信長が

本能寺の変で自害すると、清玉は自ら

合戦中の本能寺に赴いて信長の遺灰を

持ち帰り、墓を築いたとされている。

後に織田信忠の遺骨も二条新御所より

拾い集め、信長の墓の横にその墓を

作ったという。さらに本能寺の変に

よって討死した名の分からぬ多数の

犠牲者も当寺に葬って供養したという。

 

 

桶狭間の戦いの前日に今川義元は沓掛城に

入るのですが、どうも沓掛城に入る前に

祐福寺に立ち寄っているようです。

祐福寺は三河と尾張を分ける国境の境川

の近く、岡崎街道(岡崎方面からは

平針街道と呼ぶ)にあります。

現在の愛知県愛知郡東郷町にあります。

 

豊明市にある一之御前社には安産水と

して有名な霊泉があります。

 伝説によれば、「室町時代末期、

沓掛城主8代目近藤伊景の姫君が後奈良天皇

の宮女として仕えていたが御懐妊、郷里の明知

(現みよし市三好町)に帰る途中、菩提寺の

祐福寺に参詣しようとしてその途次に清水が

湧き出ているのを見てこれを飲み、渇きを

いやしたところ安産することができた」と

伝えられています。


 今でも産婦が安産を願って遠近から

この清水をもらいに来るということです。

 

熱田神宮 裁断橋コース

正覚寺(しょうかくじ)

 西山浄土宗、山号は亀足山(きそくざん)。

 

永享6年(1434)融伝上人の創建。

曼陀羅寺・祐福寺とともに尾張三檀林の一つ。

徳川家康幼時幽居跡

 天文16年(1547)、家康が竹干代と呼ばれた6歳のとき、

岡崎から駿河の今川氏へ人質に出されたが、戸田康光に

より織田信秀へ送られた。

家康は加藤図書助(かとうずしょのすけ)に預けられ、

2年程幽居した。

建物は戦災によってすべて焼失した。