「元気でね。」
親元を離れて、私がこれから暮らす場所
児童養護施設。
号泣する私、母親。
知的障がいの持つ両親の間にできた私は3歳で
親の離婚と同時に施設へ預けられた。
正直、幼少期の記憶なんて
ぼんやりとしている。
覚えている一部分と、母親が残した日記を頼りに
ここに記録として残したい。
・
北海道のとある町。
小さな無人駅前の保育園に
2歳頃から週に3日程度通い始めた。
少し周りの子達との距離感を感じていたが、
その頃は、普通の、周りの子達と、
何もかわらない暮らしだと思っていた。
私の好きな食べ物はおやつカルパスだった。
保育園がおわると毎日、
父親がおやつカルパスをくれた。
だから父親の方が好きだった、ということは
母親には内緒にしておきたい。
・
ある日。
保育園が終わり母親が迎えに来た。
私は帰りたくないと喚き、母親に叱られて
無理矢理連れて帰られたことがある。
その頃、毎日のように
母親と父親の口喧嘩が絶えなくて
私はそれを恐怖に感じていた。
どうしても帰りたくない理由だった。
いつものようにカルパスを
食べていたのを覚えている。
「アンタ、もう離婚しよう。」
当時は、「離婚」という言葉さえわからない私が
その時だけ脳裏をよぎった。
家族がバラバラになるなんて思ってもみなかった。
翌週になると
両親がなんだか忙しそうにしていた。
私を施設に預ける手続きだった。
2000年12月。
私は児童相談所に預けられた。
状況がわからなかった私は
保育園が変わったのだと勘違いしていた。
しばらく両親と会えなくなることを告げられると
1ヶ月近く両親に会うことはなかった。
・
誕生日が1月の私は、
毎年の誕生日の家でのご馳走が好きで
楽しみにしていた。
2001年1月11日。
児童養護施設に預けられる。
誕生日の前日。
知らない大人の人が
「これからは、お母さん、お父さんとは暮らさなくなるんだよ。」と言った。
最初は理解していなかったけど、
「元気でね。」
父親の一言でまた離れるの?と思った。
そして、泣いた。
なんで、親と離れて暮らさないとならないのか
その時の私にはわからなかった。
そこの施設には、他にも保護されている
子供達が30人近くいて、賑わっていた。
職員、子供達、
みんなで私のことを迎え入れてくれた。
それから
「私、これからはここで暮らすんだ。」
と、やっと把握できた。
毎日ように元気いっぱいの子供が「遊ぼう!」と
声をかけてくれたが、
私は体を動かす遊びや、公園遊びよりも
絵を描いたり何かを作ることが好きで、
ひとり過ごすことが多かった。
自慢ではないけれど、
今でも絵を描いたり物を作ることは
人並みよりはできる方だ。
誰かのために、なにかをしたい。
そしてその事で誰かに喜んでもらいたい。
そういう風に思うようになったのは
いつからだったでしょう。