『聖徳太子1400年御遠忌』


『叡福寺』!!
 … 『用明天皇』

















『近つ飛鳥の里』







『太子町』











『用明天皇陵』


被葬者:
用明天皇(第31代天皇)

陵名:
『河内磯長原陵』
 (こうちのしながのはらのみささぎ)

陵形:
『方墳』

所在地:
大阪府南河内郡太子町春日




『敏達天皇陵』の北東にあり、
『敏達天皇陵』の様に森に囲まれてないため、
遠くからでもよくわかります。
用明天皇といえば天皇としてというより、
“聖徳太子の父”としての方が有名でしょうか。









用明天皇

『第31代天皇』

御名:
池辺皇子(イケノベ)

異称:
橘豊日天皇

生没年:
欽明天皇7(546)年
 ~用明天皇2(587)年

在位:
敏達天皇14(585)年
 ~用明天皇(587)年

続柄:
(父)欽明天皇、(母)皇妃蘇我堅塩媛


兄 敏達天皇の崩御に伴い即位、
『磐余池辺宮』にて執政した。
『大臣』は蘇我馬子、
『大連』は物部守屋がそのまま任じられている。
即位後間もなく、異母兄弟の穴穂部皇子が
敏達天皇の皇后であった額田部皇女
(後の推古天皇)を犯そうと企み、
それを三輪逆が阻止するという事件が起きた。
( 三輪逆…敏達天皇の寵臣 )

穴穂部皇子はこれを不遜だとし、物部守屋に訴えこれに同調した守屋が三輪逆を斬ってしまった。
これを聞いた馬子は
「天下の乱れは近い」と嘆いたが、
守屋は「そなたの様な小臣の知るとこではない」と一蹴し、両者の関係はさらに悪くなった。
また、天皇は先帝とは違い【崇仏派】であったため、【廃仏派】の守屋は危機感を募らせていった。
この様な中、天皇は疱瘡により、
在位わずか2年で崩御した。
在位2年、宝算41歳。


この天皇、実は生年がはっきりしておらず、
史料によって宝算がまちまちです。
一応ここでは41歳と記していますが、
この歳を採用している史料が一番多いため
(『神皇正統記』、
『如是院年代記』、『和漢合符』)。
他にも『水鏡』の36歳説、
『皇年代紀略』、『興福寺略年代紀』
の69歳等様々な説があります。


本足跡











『用明天皇』。。。






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『用明天皇』
(ようめいてんのう、生年不詳
- 587年5月21日?〈用明天皇2年4月9日〉)は、
日本の『第31代天皇』
(在位:585年10月3日?
〈敏達天皇14年9月5日〉
- 587年5月21日?〈用明天皇2年4月9日〉)。



『第31代天皇』

【在位期間】
585年10月3日? - 587年5月21日?
敏達天皇14年9月5日 - 用明天皇2年4月9日

【時代】
飛鳥時代

【先代】
敏達天皇

【次代】
崇峻天皇

【誕生】
不詳

【崩御】
587年5月21日?

【陵所】
『磐余池上陵』
→『河内磯長陵』(河内磯長原陵)

【漢風諡号】
用明天皇

【和風諡号】
橘豊日天皇

【諱】
池辺?

【別称】
大兄皇子
橘豊日命

【父親】
欽明天皇

【母親】
蘇我堅塩媛

【皇后】
穴穂部間人皇女


【子女】
田目皇子
厩戸豊聡耳皇子
当麻皇子
来目皇子
殖栗皇子
茨田皇子
酢香手姫皇女


【皇居】
『磐余池辺雙槻宮』





『諡号・異名』

【和風諡号】は、
『日本書紀』では
橘豊日天皇
(たちばなのとよひのすめらみこと)、
『古事記』では
橘豊日命
(たちばなのとよひのみこと)という。

【漢風諡号】の『用明天皇』は
代々の天皇と共に
淡海三船によって名付けられたとされる。

なお【諱】を
池辺皇子(いけのべのみこ)というのは、
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の表記に基づくものであり、『日本書紀』で記されている
同名の人物と同一かは明らかではない。
また、即位前の名称として
大兄皇子(おおえのみこ)とも称する。


本足跡


































































「淡海 三船」!!。。。

淡海 三船(おうみ の みふね)は、
奈良時代後期の皇族・貴族・文人。
始め御船王を名乗るが、
『臣籍降下』し淡海真人姓となる。

天智天皇の玄孫。大友皇子の曽孫。
式部卿・葛野王の孫、
内匠頭・池辺王の子。
官位は『従四位下』・『刑部卿』。
勲等は『勲三等』。




【人物】

聡明で鋭敏な性質で、多数の書物を読破し文学や歴史に通じていた。
また書を書くことを非常に好んだという。
奈良時代末期に文人として
石上宅嗣と双璧をなし、
二人が『文人の首』と称されたという。

若いときに唐人の薫陶を受けた僧であったこともあり、
外典・漢詩にも優れていた。
『経国集』に漢詩5首を載せ、
現存最古の漢詩集『懐風藻』の撰者とする説が有力である。

また、『釈日本紀』所引「私記」には、
三船が『神武天皇』から『元正天皇』までの全天皇
(当時は帝に数えられていなかった曽祖父の『弘文天皇』
と、すでに諡号を贈られていた『文武天皇』を除く)
と15代帝に数えられていた『神功皇后』
の【漢風諡号】を一括撰進したことが記されている。

「文武天皇」の初出は『懐風藻』であり、
この【諡号】にも三船が関与した可能性はある。
『広辞苑』第7版では「淡海三船」は
「神武天皇から光仁天皇までの【漢風諡号】を選定したともいわれる」と記されている
(ただし弘文天皇と淳仁天皇は除くと考えられる)。
また、宝亀10年(779年)には
鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を記した。
『続日本紀』前半の編集にも関与したとされる。
『日本高僧伝要文抄』に
『延暦僧録』の「淡海居士伝」が一部残っている。


本足跡