✨✨【御四国】
『阿波』編 ‼
【讃岐】



















『多度津』





『白方』




次の【目的地】は、
『善通寺』、『海岸寺』、であり
『仏母院』である ✨ 。。。



と、、その前に !!…
『八幡宮』を見つけたので ♪。。

ちょっと寄って行こう (笑)✨





きらクロネコちゃん↑きらキラキラ




「熊手八幡宮」










『多度津郷の総鎮守』!!


「熊手八幡宮」

仲多度郡多度津町西白方200


 この神社は『東白方海岸』の南に鎮座する
広大な神域をもつ古社です。
道路際に横幅の広いどっしりとした明神鳥居が建ち、そのすぐ後ろに参道狛犬、随神門内にも珍しい町指定有形文化財の変わった木製狛犬もいます。
 『随神門』を潜り境内に足を踏み入れると、入口付近とはうって変わって広々とした感じの境内に、『拝殿』、『絵馬堂』、『社務所』等がゆったりと配されています。
又、多数の境内社も祀られ、
明治期の『一村一社制』を考えると
この社の『産土神』としての範囲の広さを現しています。



【御祭神】
応神天皇、神宮皇后、比売神

【例祭日】
10月1・2日


【境内社】
「石神神社」、「愛宕神社」、「稲荷神社」、
「出雲神社」、「若宮神社」、「高良神社」、
「元祭神社」、「八坂神社」、「大地主大神」




『由緒』
『社伝』によると、昔 神功皇后が『三韓征伐』の帰途、風波の難を逃れてこの地に避難され、出発に際し『旗・熊手』
(兵器の一種である鉄製)を止め置かれました。
村人はこれを祀って、『熊手八幡』
と呼ぶようになったと伝えられています。

 『道隆寺温故記』には
延久5年(1073)『白方八幡宮』の荒廃が著しく再建したとあり、『多度津』地域の
『八幡神社』の中では最も古社のようです。

 その後 江戸時代にも
文明13年(1481)・寛文11年(1671)
・正徳4年(1714)・宝暦9年(1759)
の修理の記録があり、
明治21年には幣殿・拝殿を改築、
神饌殿・絵馬殿を新築し、
同23年本殿を改築しました。

 文政12年(1829)『京極家』はこの社を
『産土神』とし、祭祀の方法が整えられ、
明治以降も郷社として『多度津町』において
最も崇敬された神社でした。

 江戸時代初期『白方八幡宮』と称していたようですが、中期には「熊手八幡宮」と改称。
 『維新』後の明治26年(1893)には
「熊手八幡神社」と改称し、
同44年(1911)
『神饌幣帛料供進神社』に指定されました。

 『第二次大戦』後の昭和25年には
「熊手八幡宮」と復称されました。


本足跡










『狛犬』!! 。。。

『高麗犬』!! 。。。✨







きらジジ !! 





『隋神門』




ジジ !! 
……ではなく!!…黒猫きら笑キラキラ

こちら!!。。↓↓↓ 足跡











きらジジ!!きらキラキラ


『高麗犬』!!✨














✨✨✨















🕊
































阿 ?…
(口元が、修復されてるっぽい ?)



 吽























「出雲神社」

















「稲荷神社」









「若宮神社」





















そう!!…そして!!ここ!!
なんと!!?


弘法大師の産土神 !! …
『産土神社!!』
だという !! 。。。



そんなことも全く知らずに寄っていた(笑)!!

(ブログでの、後調べで。。発覚!!…)

きら黒猫↑きら笑



この先の【目的地】は、
『善通寺』、『海岸寺』、であり
『仏母院』である ✨ 。。。


ブログで見ていると!!…
まるでちゃんと分かってて、、知っていて、寄って行っている!!?かのような流れである(笑)✨✨




完璧だ!!✨。。きらジジきら!!キラキラ

(知らなかったけど…うっとりねこやんキラキラ笑)

よくあることである!!。。
きら黒猫↑きら笑キラキラ









弘法大師の産土神「熊手八幡宮」 

 その昔、大師の母、玉依御前のお屋敷が
この近くにあって、
大師を身ごもられた時、
安産を祈願してご参拝になったとされています。

 『産土(うぶすな)神』とは、
私たちが生まれた土地を司っている鎮守の神のことで、大師がここ『白方の地』にお生まれになったことから、「熊手八幡宮」を
『産土神社』と崇められました。

 江戸時代に紀州藩の儒者仁井田好古によって編された『紀伊続風土記』には、
「人皇四十九代光仁天皇宝亀五年六月十五日
弘法大師讃州屏風浦に御誕生あり。
日本の風俗に随ひ
白方村の八幡宮を氏神と崇め給ひ、
延暦廿三年入唐の砌深く大菩薩に祈誓ましまし云々」とあります。
(正確には、
『氏神』とは先祖の祖神のことで、
『産土神』とは異なる)

 さらに弘仁十年(819)、
大師は社殿を造営し、
ご神体八体と釈迦尊像一体を刻み安鎮、
嵯峨天皇の勅額を賜って鳥居にかかげました。
ここに供僧坊舎四十八宇、宮仕えの巫女数十人が置かれ、『神仏習合』の社寺として永く祭られることになったのです。








【熊手八幡宮の縁起】

 この「熊手八幡宮」は、
大師ご誕生よりさかのぼること四百年、
神功皇后が『三韓征伐』の帰途、風浪の難を避けて上陸されたという伝承に因む古社です。
皇后は『長鉤』(熊手)と『旗竿』を土地の者に与えて、従者の渡辺一族の遠祖にこの地に留まって祭祀するよう申し付けました。

 欽明天皇の頃、
応神天皇(誉田別尊)を主祭神とする
『八幡宮』が全国的に祭られるようになりますと、ここ『白方』でも
神功皇后(応神天皇の母)ゆかりの地であることから「熊手八幡宮」、もしくは
『白方八幡宮』として祭られることになりました。









【大師と八幡神】

 弘法大師は生前、
『八幡大菩薩』とご対面され、お互いの姿を写し合ったとする伝承があります。
八幡神は、
「わたしとあなたはもと同一体であり、
上人の居る所へは必ず影と形のごとく追い随うつもりである」と申されました。

 かくて、大師が
『高野山の奥の院』にて【ご入定】になられますと、『白方の八幡神』は生前の約束を果たそうと、
【ご神体】である『熊手』と『旗竿』を
【白龍】と化し、『高野山』へ向けて飛ばしました。
海上を越え、『紀ノ川』をさかのぼり、
『高野山』の管内である
『伊都郡兄井村』の松樹に掛かった【ご神体】は、遠く『葛城の峰』まで光を放っていたそうです。

 『同郡大畑村』の鬼五郎、次郎たちがその光を慕い訪れ、また諏訪次郎右エ門へも相談して、このことを『高野山』に報告しました。
同山ではこの【ご神体】を奉迎し、
丁重にお祀りすることにしました。









【巡寺八幡宮のこと】

 【ご神器】を迎えた『高野山』では、
行人方の各院が持ち回りで祭祀を行うことになりました。
これを『巡寺八幡宮』と呼びます。

 時代はずっと下りますが、
萬治二(1659)年の記録では約六十ヶ院が参加しており、担当の院では半年ほどの間、
「梵焼供養一千座、尊法供養一千座、
三時長日之修法不断之明燈」
というほど丁重な扱いでした。

 現在では、『有志八幡講』として
十八ヶ院が二ヶ月毎に巡寺しています。
各院の名称は明らかですが、何しろ非公開の祭事ですので、詳細は一般には知られていません。

 このようにお大師様の
【ご誕生地】と【ご入定地】とが、
『産土神』である「熊手八幡宮」を通じてつながりあい、
一千有余年もの間祭祀が続けられてきたということには誠に感慨深いものがあります。








【ご神体の遷座】

 明治二年(1869)『神仏分離令』の際、
同山から『兄井村』の「諏訪神社」へ
『仮殿』を建てて遷座されることになりました。

 その後、近隣の小社が合祀されることになり、
『熊手八幡』は『三谷』の「丹生酒殿神社」へ移されます。

 しかし、
『ご神体の熊手』があまりに長いため、
社殿内に入れることができず、初めは軒に掛けられていました。
掃除などの時、村人の体が『熊手』に触れると、電気が走ったようにしびれたり、火花が散ったりしたため、これはきちんと納めないといけないという話になりました。

 『熊手』は鉄製でしたが、柄の部分は木でできていましたので、短く切って納めようという話になり、大工に頼みました。
しかし大工は畏れて切ることを嫌がったので、宮司さんに頼んで祝詞をあげ切ってもらいました。
そうして納めたところが、台風で大木が倒れ社殿と『熊手』を納めた木箱が壊れてしまいました。

 その後、『有志八幡講』のご寄進もあり、
新たに建て直すこととなりました。
現在三つある社のうち左手の少し横長い社がそれで、社前に『紀伊続風土記の碑』が建てられています。










【異なる地元の伝承】

 同地では、『紀伊続風土記』の記述とはまた異なった伝承を持っています。
凱旋された神功皇后が『紀ノ川』をさかのぼって『兄井』まで来られ、
ここで『熊手』を川に沈めて奉納したというものです。

 のちに、『大畑村』の庄屋さんが朝日の昇るたび川が光って見えることに気付きました。
村人には見えなかったのですが、
あまりに庄屋さんが気にされるので、一度
川ざらいしてみようということになります。
すると川の中から
九尺もある『熊手』が見つかりました。
これをお祀りしたのが
『兄井』の「熊手八幡宮」で、
大師が『高野山』を開かれる時、
ご自身の産土神が『八幡神』であることから【ご神体】を山上に持って行かれたということです。

 また、神功皇后が旗を掛けたとされる松が
『旗掛け松』として戦前まで残っていたそうです。









【鎌八幡宮のこと】

 『兄井』と『三谷』に祀られている
「熊手八幡宮」は、
現在は『鎌八幡宮』として知られています。
その由来はこういうものです。

 ある日、草刈をしていた宮司さんが一休みしようとそばにあったイチイの木に鎌を打ち付けて、そのまま一晩忘れてしまいました。

 翌日、鎌を抜こうとしたところが、かなり深くめり込んでいて抜けなかったそうです。
それで、『八幡神』がこの木に乗り移られたのだろうということになり、
願い事がある者は鎌を打ち付けるという奇風が始まりました。

 不思議なことに、願い事がかなう場合はどんどんめり込んでいきますが、
かなわない願い事は鎌が押し出されてしまうのです。

 この『鎌八幡宮』は江戸時代にはかなり評判になっていたようで、『兄井』には鎌を売る店が何軒かあったそうです。
前出の『紀伊続風土記』には絵入りで紹介されています。

 現在でも、鎌を打ち込まれたご神木を
『兄井』と『三谷』の両八幡宮で見ることができます。









【熊手八幡宮の霊験】

 萬治二年七月二十一日のこと、
往生院谷の『本願院』に鎮座された翌日の
『御旗懸法会』の後、
下総の『正福寺』から留学の客僧が荘厳を拝することを欲してひそかに神前に入り込みました。

 かの僧は『神宝の矢』を取り、あなどって言うには、
「たとえ神物でも多勢には敵わないだろう。
神力など怪しいものだ」と。
また、銘刻がよく見えないので鼻端の油を粘して銘を読み、無造作に矢を壇上に置いて部屋に戻りました。

 さてその晩、雷鳴がとどろくと同時に
一人の神人がかの僧の寝坊に現われました。
背は高く、衣冠をつけ、弓矢を帯び、
怒眼らんらんとして言うには、
「吾はこの神の使いなり。
汝みだりに神徳を軽んじ、霊器を汚す。
いま現に一箭の弓勢を知らしめん」

 神人は弓を引きしぼり僧に向かい、
僧は怖れのあまり絶叫しました。
その声は近隣の院にも及ぶほどで、驚いた人々が来てみると、僧はその場で悶絶していたのです。
水薬を与えてようやく気を落ち着けましたが、
僧の袖を貫いて一尺五寸ほどの矢が席に突き刺さっていました。

 かの僧はざんげの涙にむせび、
「私は神の祟りを受け、生き永らえることはできないであろう。どうか私のために罪を謝していただきたい」と院務に請いました。

 その後、何程もなかったので僧は大いに喜び、
件の矢をもらい受けて自分の寺に戻って社を建て、
『新八幡』と称して大いに尊崇したということです。

 また天正十年(1582)三月上旬、
織田信孝を大将とする六万余騎の軍団が
高野山を焼き討ちしようと陣を構えていました。

 まず橋口隼人に命じて防御させ、一山の大衆は『八幡宮』(当時は宝積院)の神前に集い、『五壇の法』を修して怨敵退散を祈りました。

 すると、不思議にも神前の『御熊手』が動揺し、数千の白鳩が山の四方から飛び現われ、麓をめざして連飛しました。
その声はまるで鯨波のようで、敵兵は数万の猛勢が襲って来たと勘違いし、我先にと敗走、一山は恙なきを得たのでした。

 これらの霊験話は『阿逸多院』の法印卓元が
同年八月十五日に記した巻子本にあるものです。
同記には、
「まさに知る。
神明の助罰とも摧邪帰正の方便なりと。
ああ怖るべし、尊ぶべし」
とあります。

 つまり、ご神仏が人を助け、あるいは罰をくだすのも、間違いを正す手段に他ならない、
ということです。
穏やかに諭すだけでは充分でないこともあるようです。

本足跡 





















『四国』に上陸し、『稲荷』に寄って。。
『八幡』を見つけて、寄った 。。。

あ☆ミ!!… そうそう♪
この『白威殿』も気になって寄ったのだ(笑)✨






























このときはまだ、この『四国編』が !!…
これ程までに!!長くなるとは、思ってもなかった 。。。


































【四国】
【ア·ワ】
【阿波】
【六芒星】
【中央構造線】
【シリウス】
【剣山】
【鶴亀】
【四国八十八箇所霊場】
【かごめかごめ】
【空海】
【丹生】
【高野】
【善女竜王】
【不動明王・浪切不動明王】
【稲荷神】
【天皇】
【麻】
【忌部】
【イスラエル】
【ユダヤ】
【ソロモン】
【祇園祭】
【神輿】
【アーク】
【セフィロト】
【メノラー】
【カバラ】
【ウェシカ・ピスキス】
【三種の神器】 
【十種神宝】 
【源氏・平氏】
【媛・日女】
【吉野川】
【阿吽】
【狐】