縣社 「大避神社」













『隋神門』






















ここの『隋神門』‼ 。。
『隋神像』の反対側の裏には、!!


なんと❗❓
『仁王像』がっ!!











『随神門』

神仏習合時代の仁王門で
延享年間(1744--48)の建物。
 表側に『随神像』(右大臣・左大臣)が、
裏側背中合わせに『仁王像』が立つという
珍しい形で、神仏習合時代の名残をとどめている。

本足跡





























































『拝殿』


『拝殿』
 唐風破風を備えた豪華な2層建建物で、
延享3年(1746)再建という。
『拝殿』両翼には『絵馬殿』が延びている。

本足跡





【御祭神】

天照皇大神 大避大明神 春日大神 
(秦河勝公)



















『本殿』
 入母屋造の社殿。
明和6年(1777)再建という。

本足跡










秦河勝

 当社祭神・秦河勝は、
渡来系氏族の雄・『秦氏』の長者として
聖徳太子に仕え、その財力・技術力ともあいまって太子の有力な側近だったといわれるが、

『書紀』には
 ・推古天皇11年(603)--
 太子より『弥勒菩薩半跏像』を賜り、
『蜂岡寺』(京都太秦、現『広隆寺』)を建立

 ・ 同  18年(610)--
『新羅』の使者来朝の時、
土師連兎とともに『導者』に任じられた

 ・皇極天皇3年(644)--
駿河国富士川の周辺で、大生部多(オオフベノオオ)が常世神信仰を広めたとき、民を惑わすものとして、これを打ちこらした

とあるのみで、その生没年・場所などの詳細は記されていないが、
伝承としては
 ・用明天皇2年(587)--
物部守屋の討伐戦に太子とともに従軍し、
太子が射た矢に当たって倒れた守屋の首を斬った、
などがある。



 上記由緒は、いずれも、河勝が太子の死後におこった蘇我入鹿による
太子の皇子・山背大兄王一族殺害(643)ののち、入鹿からの迫害が我が身に及ぶのを恐れて当地に逃避、
死後、神として祀られたというが、
『風姿花伝』によれば、
 河勝は、中空の壺の中から童子として
この世に現れ、去って行くときも密閉された『ウツボ船』に封じ込められて海上に消えている。
密封された中空の器という点では
壺も『ウツボ船』も同じといえる。


 『ウツボ船』について、折口信夫は

 ・ウツボ船は、
中が中空になっているものです

 ・ウツボの
ウツは、空っぽという意味で、
ホは神の心を示すものとして現れくるシルシ、
即ち神の兆しです

 ・そこからウツボ船とは、
中が中空な器状の舟ということになります

 ・ウツといえば、空と思っていますが、
実は空ではなく、ほんとうは充実している時が、ウツらしく思われます

 ・つまり、魂(神)の這入るべき空洞を有したもの、と考えることができます

として、ウツである器とは、
中が空っぽであるとともに、
神が充ち満ちたものだという
(『石に出て入るもの・1932』、大意)。

 これからいうと、河勝は、
ウツなる壺に入って流れ下り、
神の化身である童子としてこの世に現れて
聖徳太子の『政』(マツリゴト)を助け、
去るときは『ウツボ船』に乗って西海に浮かび、漂着した『坂越の浦』で
神として再誕したということができ、
それを、『猿楽』に堪能な禅竹は、
河勝は【翁】であり【宿神】であったと記したと思われる。

 管見した史料によれば、8世紀から9世紀にかけての播磨国坂越・赤穂郷一帯の資料に
『秦氏一族』の名が見えることから、現実の話として、河勝が入鹿の迫害を避けたのだとすれば、その逃避先が、『秦一族』が居住していた当地の辺りであった可能性は強いという。
 また、オオサケの“サケ”が
“遠ざける”・“辺境”を意味する(柳田国男)ことから、古くから当地に住み着いていた
『秦一族』が、都から遠いこの地を守護する
“辺境の神”として、『秦一族の祖』
・河勝を祀ったのではないか、ともいう
(今も、赤穂市を中心に、
30社ほどの当社の分社祠があるという)。

 当社の眼前に見える『生島』(イキシマ)に『河勝の墓』があるというが、他にも、
京都市西京極あるいは大阪府寝屋川市にも
『河勝の墓』と称する遺構がある。
 なお表記は異なるが、
同じオオサケを名乗る神社として、
京都・太秦の『広隆寺』のすぐ脇に
秦氏一族の創祀といわれる「大酒神社」がある。


本足跡














『絵馬殿』

 『拝殿』の左右に延びる『絵馬殿』には、
奉献された十数面の絵馬とともに
祭礼船の模型などが飾られ、
脇には、『船渡御祭』
(国指定無形民俗文化財)に使用した
『楽船』(県指定有形民俗文化財
・L=7.85m・W=3.15m
・唯一屋形を持つ祭礼船)が保存され、
その屋形前の案内には、
 「兵庫県有形民俗文化財  祭礼用和船楽船
全長:7.85m、幅:2.1m、深さ:0.60m
 この船は国選択無形民俗文化財『船渡御祭』に使用されたもので、楽人が乗って雅楽を奏した。
現在では復元船が使用されている。
祭礼船12隻の中で、この船だけが屋形を持つ。
 『渡御』に際しては、内部に2畳を敷き、
幟を吹き流し、幕と艫暖簾・提灯で偽装される。(以下略)」
とある。

 『絵馬』は、17世紀後半以降、
当地が回船業で栄えたことから、
『帆かけ船』(最古:明和年間-1764--72)や
『祭礼船』(伝馬船)を描いたものが多いが、中には『猿楽』(能楽)・『舞楽』に関係するものが見られる。

本足跡









秦河勝と『猿楽』(今の『能楽』)

 奉納された絵馬の中に、能の翁面に
舞扇・鈴を組み合わせ描いた額がある。
これは、当社祭神・秦河勝が『猿楽の祖』とされることからのもので、
『風姿花伝』には
 「今(室町時代)、世間の人々が賞翫する
芸(『猿楽』→後の『能楽』)は、
推古天皇の御代、聖徳太子が秦の河勝に命じられて、一つには天下泰平の祈りのため、
一つには人々の娯楽のために、
六十六番の芸能を制作してこれを『申楽』
(猿楽)と名づけられたのが始まりで、
その時、太子は手作りした『六十六番の面』を河勝に与えた。
その後、河勝の遠い子孫が、
この『申楽』の芸を相伝した」(大意)
とあり、太子が秦河勝に演じさせた芸が
『猿楽』の始まりという。

 これが、当社が古く『猿楽の宮』
・『宿神』とも呼ばれ(『明宿集』)、
今、芸能・特に能楽関係の絵馬が奉献される由緒である。
 しかし正史にみる秦河勝に、
芸能・音楽についての事蹟は何ら見えず、
これらの伝承は『猿楽衆』が伝える伝承であろう。




 当社に伝承する古面について、
古資料・『播磨鏡』には
 「その舞面一つ、猿田面一つ、社内に蔵すも、神威を畏れて拝見する人なし。
元禄の頃、在僧観了法印拝見す。翁の面なり。
頗る毀敗に及ぶと云う」
とあり、また別の資料では、
 「仮面は能面ではなく、
舞楽面の蘭陵王と覚しい怪奇な相貌の面」
ともいう。

 『明宿集』によれば、
 「翁に対して、当座(『円満井座』
・エンマルイザ、今の金春座)では
【鬼面】を安置している。
この【鬼面】は聖徳太子の御作品で、
秦河勝に『猿楽』の技を仰せつけられたとき、河勝に下さったものである。

 これは【翁】の示す一つの側面を表現している。
諸天・善神や仏・菩薩からはじまって人間に至るまで、柔和と憤怒の二つの形がある。
これは善悪という二つの相の一つであることを表現する形である。

 そのため、愚かな衆生を調伏するために
怒りの表情を示すときには、
夜叉・鬼神の形となって現れるが、
柔和・忍辱・慈悲の姿を表すときときには、
その表情は荘厳にして、本有如来の審美的なお姿を示される。
 したがって
【憤怒】と【柔和】とは一体であり、
それぞれの現れに対して与えられる異名にほかならない」
とある。

 当社に伝来するという
『翁面』と『舞楽面』(猿田面)は、
『明宿集』にいう
太子作の翁面・鬼面の2面で、
蘭陵王に似た舞楽面とは鬼面を指すと思われる。

 また、絵馬のなかには
舞楽・蘭陵王(ランリョウオウ)を描いたとおぼしきもの(平成10年奉納)があり、
奉納者は “ 楽祖秦河勝後裔
 元宮内省式部職楽部 誰某 ” とある。


『明宿集』に、
 「秦河勝には3人の子があったが、
一人は武士となり、一人は楽人となり、
もう一人は猿楽者となって、
それぞれの伝統を伝えた。

 武芸を伝承した子孫は
今の『大和長谷川党』の人々である。

 楽人の技芸を伝えた子孫は、
仏法最初の寺である「四天王寺」に依って
『百二十調の舞』を舞いはじめた人々である。

 そして猿楽を伝えた直系子孫が、
我々『円満井座』の金春大夫である。・・・」

とあり、舞楽集団に属した家系の後裔が奉納したのが、この絵馬で、当社所蔵の舞楽面に因むものであろう。


本足跡







『申楽』。。『猿楽』。。
























『楽船』



























「大避神社」

秦河勝 ‼。。。


『秦氏』と言えば渡来人であるが
その先祖は古代イスラエル王国が滅ぼされたときに世界に散って行った
『イスラエル十二支族』のひとつとされている。

『機織り』、『酒造』、『雅楽』 を伝え
莫大な資産を築き上げ影で『天皇家』をも動かしてきた。
「松尾大社」、「伏見稲荷」、
「宇佐八幡宮」、「上賀茂、下賀茂神社」
を創建、
自然崇拝の日本人に『神道』をうえつけて、
『秦氏』の本拠地『太秦』(うずまさ : 
日本人には理解できない読み方だが
古代ヘブライ語ではウズ=光、マサ=贈り物)に『広隆寺』を建立、
その脇に「大酒神社」がある。
この「大酒」旨くカモフラージュしているが「大避」である。
その前は「大闢」と書いていた。


『秦の始皇帝』を先祖に持つとする
『秦氏』はただ者ではない。


秦=機織り=服部=忍者も
『秦氏』が伝えて来た。

政治の表舞台に顔を出さないことが多いが
秦河勝は聖徳太子のスポンサーとして名を馳せた。
その為、聖徳太子が亡くなると蘇我入鹿に追い出され、播州千種川辺りに逃亡してきた。


こちらの「大避神社」も
元は「避」の文字ではなくもんがまえの
「大闢神社」と記されていた。
『大闢』(だいびゃく)とは、
中国語で 『デウス』のことです。

しかも社伝では河勝が亡くなった時に
この辺りの開拓の功績を称えて祀った、
となっているようだが、実は河勝が生きていた時からあったらしい。

河勝は巧妙にカモフラージュして『デウス』を祀っていたのだ。



神社の前の湾に浮かぶ「生島」に河勝は葬られており禁足地となっている、
そしてそこにある井戸を『やすらいの井戸』と呼んでいる。
「やすらいのいど」・・「イスライノイ」・・

境内の井戸はユダヤの象徴で内部が12角形になっているらしい。


祭りはユダヤの様式で舟に乗って雅楽を奏で
先祖の地(前の『生島』)を訪れるもの。
尚、『雅楽』の『東儀氏』も河勝の後裔である。




「大避神社」は この千種川辺りに三十ヵ所以上
(大酒、大辟、を含む)あるという。
この辺りにユダヤの人たちが大勢住み着いていた証拠だ。

播州地方はユダヤの形跡がたくさん残っている。

「曽根天満宮」の『秋祭り』で
「一つ物」のお稚児さんのおでこの「八」
日本人には意味が通じないが
「ヤハウェー=神」の「や」、
「一つ物」=「いっちょら」と語源が同じ、
ヘブライ語の伊呂波から。
「ヨイヤサー」のかけ声
「ヨーム ヨシュアー=神」のなまったもの。
『神輿』を担いで神殿に向かう儀式。等々。


本足跡
































『広隆寺』






☆『牛祭』★

『太秦』。。。

「大酒神社」