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『牛頭天王』‼ 。。。
『感神院』。。。
「木山神社」
(きやまじんじゃ)
当社の創建は弘仁7年(816)と伝えられており、古くは『感神院』
・『木山牛頭天王』とも言われ、
『京都祇園の八坂神社』、
『播磨国の広峯神社の牛頭天王』などと並び、【日本最古の天王社】として
広く一般庶民の信仰を受けた。
平安時代以来『素尊信仰』の上に
『京都祇園社』の信仰を導入したため、
当社の信仰は一層拡大され、
南北朝時代から室町時代にかけては
『美作国南三郷』
(現在の落合町)の「総社」として崇敬された。
江戸末期には、
美作国『勝山』の藩主 三浦侯の定める藩内の直参、或いは代拝する神社五社の中に数えられ藩主崇敬の社として、藩内領民の崇敬も厚く、『明治維新』以降に神社に社格が付与されたとき直ちに『南三郷』の「郷社」に列せられ、
その後昭和9年には岡山県の「県社」に列せられた。
昭和に入り当社の信仰は以前にも増して厚くなり県下はもとより京阪神・山陰地方・広島地方からも参詣者相継ぐ盛況を見るに至り
山頂境内までの難路、参拝時間の関係上
その山麓に『里宮』を建設して欲しいとの要望が高まり、
昭和37年 山頂の御社殿は『奥宮』としてそのまま存置して新たに『里宮』が新築・移築をもって現在の鎮座地に造営された。
『奥宮の本殿』は天正5年の大火の後
天正8年(1580)に再建されたものであり、
また『奥宮随神門』の『随神像』は
室町時代の應永3年(1396)の作で
天正5年の大火の際にも焼失することなく
現存している。
共に【岡山県の重要文化財】に指定されている。
「木山神社」
【通称名】
『感神院』,『木山牛頭天王』,
『お木山さま』
【旧社格】
県社
【鎮座地】
真庭市木山1265-1
牛 ‼✨
木山神社『拝殿』
【国登録文化財】
「木山神社」の創建は、
弘仁七年(816年)と伝えられており、
『京都祇園』の「八坂神社」
の【御分霊】をお祀りしており、
現在の真庭市落合地域が『美作国』だった頃に は、『美作国南三郷』(今の真庭市落合地区)の総氏神として、『勝山藩』の藩主だけでなく、諸大名や藩内領民達からも厚く崇敬されてきました。
元々は今の『奥宮』が『本宮』で、
「木山寺」と共に『神仏習合』の『木山宮』として祀られてきましたが、
明治になり『神仏分離政策』により
「木山神社」と「木山寺」に別れました。
古くは『木山牛頭天王』と呼ばれ、
『旧出雲街道』には
『大仙道』『伊勢本街道』『出雲街道』を示す表示と共に『木山道』を示す標柱が今も残されており、信仰の広さがうかがえます。
『明治維』新以降から終戦まで、
全国の神社を国が管理した時代があり、
この時に『社格』という【格】が与えられましたが、当「木山神社」は県民全体で崇敬すべき神社として「県社」という格が与えられました。
また、戦後昭和三十七年には、戦前より計画されていた『里宮造営事業』が実現され、
木山山頂から山麓に『遷宮』され、
現在の鎮座地が造営されました。
現在『里宮』の境内にある建物のうち、
『木山神社の本殿』以外は全て山頂からの移設で、『本殿』は『奥宮』として山頂に残したために、『里宮』には新たな『本殿』が建てられています。
【ご祭神】
【御祭神】は
須佐之男命(すさのおのみこと)で、
荒々しい神である反面、『八岐大蛇退治』や『蘇民将来』の伝説で知られるように、
世に平和をもたらし、情深い加護を下さる神として、家内安全・悪疫退散・開運招福・
縁結び・勝負事・などの神として、
江戸の頃から『美作』だけでなく、
『備中』・『備後』・『伯耆』・『出雲』から広く信仰されてきました。
『本殿』
「天満宮」
当社での創建年代不明なことが多いのですが、
安政七年に『常夜灯』と『鳥居』が奉納されていることから、幕末には境内社として祭られていたことがうかがえます。
【ご祭神】は
菅原道真公をお祭りしております。
道真公は平安時代の学者で、右大臣まで務められました。
生前、道真公は英知に秀でていたことから、
『学問の神さま』として信仰を集めています。
「善覚稲荷神社」
古くは社号を「善覚神社」
と申し上げていた神社で、
昔 小山善覚坊という修験者がおり、
この善覚坊が「伏見稲荷」から勧請した
『稲荷神』を拝み、霊感を使ってましたが、
神の力が強くなり過ぎ、
善覚坊の力では抑えきれなくなり、
現在の『奥宮』と「木山寺」の間に社を建てて祀ったのが「善覚神社」の始まりと言われています。
「木山神社」と同様に、
「善覚稲荷神社」の霊験のたかさも古来より有名で、江戸末期から明治にかけて県内各地に『善覚稲荷』の信仰は広がっていきました。
『善覚稲荷神社本殿』及び『拝殿』
【国登録文化財】
【善覚稲荷神社ご祭神】
【御祭神】は
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を始め、
赤衾衣奴大住日子佐別命
(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)
また、合祀した「木山八幡神社」の神や
稲作に関わる神々五柱、猿田彦神など、
計九柱の神々を祭神としています。
『狐使いの修験者』‼… 善覺坊 ‼ 。。
善覺稲荷大明神 ‼ 。。
「木山神社」『里宮』
「招き猫のクックさん」
『作州木山宮略絵之図』(「木山寺」蔵)
【木山寺・木山神社の沿革と概要】
「木山寺」と
「木山神社」(惣社・牛頭天王社)は、
かつては『神仏習合』による一体の寺社で、
それぞれの【本尊】と【祭神】も、
『薬師如来』とその垂迹である
『牛頭天王』(素戔嗚尊)ということで、
元々は祭祀・礼拝の対象を同じくしています。
両寺社は、標高430mの木山山上にあって、古くから宗教の聖地として、
多くの人々の信仰を集めてきました。
一帯は郷土自然保護地域に指定されている
自然環境の美しい霊峰で、老杉古柏も鬱蒼とした静寂な景色は、情緒ある風情を醸し出しています。
今も両寺社ともに、多くの願いを叶うとして、広く帰依・崇敬を受けています。
【開創伝承】
「木山寺」が創建されたのは、
弘仁年中(810~24)のことと伝えられます
(「作陽誌」)。
同寺の縁起によれば、同6年(815)、
高祖弘法大師が『美作』の地を訪れた際、
『木樵姿の翁』(薬師如来)に導かれて、
寺院を建立したとしています。
一方、「木山神社」は、同7年(816)、
『京都祇園』の「八坂神社」の【御分霊】を祭祀したとしています(延喜7年(907)とも)。
(これらの説によって開創1200年の根拠としています。)
【中世の木山】
弘安・永仁(1278~99)に『木山寺の中興』があったと伝わり、
応永18年(1411)、同24年には
美作国守護・赤松氏が『南三郷』
(栗原・鹿田・垂水郷)の「惣社」に
社領を寄進、別当・神官に社殿の修理や
祭礼の実施を命じています。
また、天文8年には、『美作国』に侵攻した『出雲国』の大名・尼子詮久が、
「木山感神院」の得ていた過去の禁制の内容を保証し、「木山寺領」に対する課役等を改めて免除しています。
さらに永禄9年(1566)には、
「普善寺」の宝月坊が、隣山神林山の
本堂再建の勧進を行っています。
「普善寺」は、木山寺の別名で、
他に僧房として、西光房・東泉房・新房・
松本房・中蔵房・向房・南光房・東林房・
東蔵房・竹中房・檀房・西房の12房があったとされています(木山寺文書、『作陽誌』)。
こうした史料などから、中世の木山には、
南三郷の「惣社」である「木山感神院」を中核として堂社が散在しており、
その内「普善寺」が、
諸堂や僧房からなる「木山寺」の本房、
かつ「惣社」「木山感神院」の別当(社僧)を務め、祭祀が行われていたとみられます。
【堂社の被災と再興】
しかし、天正5年(1577)12月に、
社前の『随神門』を残して堂社が全焼。
同7年末に始まる
『備前宇喜多氏』と『安芸毛利氏』の抗争でも、『毛利氏』の陣が構えられました。
そうしたなかながら、同8年3月には
『本殿の立柱』が行われ、
翌9年夏に『落成』。
併せて仏堂の再建も進められたとみられるものの、再興されなかった堂社は多く、
西房を除く多くの僧房も廃絶したままとなったとされています
(木山寺棟札、『作陽誌』)。
【近世の木山】
その後、当地の領主となった『宇喜多秀家』からは、木山寺山林の濫伐を禁じる文書が重ねて出されています。
また、慶長9年(1604)には、
『津山藩主・森家』から「木山寺」に宛て、
当寺領敷地と菜園畠27石余りが、次いで70石が寄進され、山林の濫伐を禁じるなど、厚い保護が加えられています。
その後は『勝山藩主・三浦家』からも、
改めて寺領や宝物が寄進されるなど、篤い信仰が寄せられています
(木山寺文書、『作陽誌』など)。
なお、「木山神社」の使わしめという
75匹の『木山狐』も
霊験あらたかな存在として有名で、
狐使いの修験者・善覚房が、
「京都伏見稲荷」から『稲荷大明神』を勧請、正徳年間(1711~5)に一社を建立し、
今も寺社それぞれで祀られています
(「作陽誌」、『落合町史』など)。
【近・現代の木山】
長年にわたって『神仏混淆』の寺社
として続いてきた木山の寺社も、
明治初年に行われた『神仏分離政策』によって、『寺院』と『神社』として完全に別れることになりました。
双方で敷地を分割し、『牛頭天王社』では、
社号をはじめ、祭神・祭祀・祭具などから仏教色を排除して、【社号】を「木山神社」と改めました。
また、「木山寺」では、
別に『鎮守殿』を建築し、『牛頭天王』と
『善覚稲荷大明神』を独自に祀るなどしています。
さらに「木山神社」は、
昭和32年(1957)、山麓に『本殿』を新築し、『拝殿・社務所』、「善覚稲荷神社」など多くの社殿を移築しましたが、
旧本殿は『奥宮』(おくみや)として現地に残され、「木山寺」の諸建築とともに、往時の威容を山上でよく伝えています
(『木山神社由緒記』など)。