「自然の制約」は、我々を怒らせない。



たとえば


我々に空を飛ぶ自由がないというのはこの世界の自然な性質であり、


政治思想の課題になるのは

あくまで


物理的な特性の範囲内で

なしうることを広げることであり


世界自体の性格は

所与のものとして

受け入れられなければならない

というものである。




※リバタリアン






次男りくの大学受験直前期に、
長男、次男の幼少期を振り返りながら

思いつきではじめたブログ


その行く末は当初
りくの合格発表だとか
大学入学あたりで終焉する
はずであった。

しかしながら


赴くままに書き連ねながらの
イマココ

長男は就職しており
次男は大学4年生になっている。


大人になった彼らは
幼い頃の愛くるしさを当然のごとく
失ったが

なかなか、ブログに登場しないのは
そのためではなく



何年も、一緒に暮らしていないため
である。

それでも、ときおり帰省の様子を
書きながら

彼らの成長を覗き見てきた
つもりであるが



令和6年8月現在

次男のりくは
一応の帰省中にも関わらず
ここにはいない。

こことはどこか。

リビング、ダイニング、自室
トイレ、浴室


中学生の頃、育爺亡き後に移り住んだ
イマ母親と祖母が住む家

すなわち
「彼の実家」とは
言ってみれば

ライダーハウス




「地元に帰る」
「帰省する」

その意味は、なんとなく「実家」を拠点としているものの「血縁者とのイマココ」を意味するものではないのだろう。


空を飛び 時に海を渡る
実家と自宅の間の距離は1500キロ



彼にとって地元の範囲は、
実家を中心として
半径150キロ

北の大地はなかなかに広い







  

「共感してくれない」と言って怒り出し謝罪を求める騒ぎがおきた。





「共感してくれない」と言って、怒り出し謝罪を求める騒ぎがおきた。

その患者は「共感してもらえない」と感じたのかもしれませんが、

それはあくまで
その患者の受け取り方です。

実際その先生は、患者からそのような指摘を受けたことは過去に一度もなく、私から見てもコミュニケーションは良好であり診察態度も良い先生です。

この騒ぎは
言ってみれば


ラーメン屋に入り

他の客が
静かに食べているところで

「まずい!」と言って
怒り出し

謝罪を求めるのと同じです。



仮に

「共感してもらえない」
「ラーメンがまずい」と感じても、

その場で怒り出し謝罪を求めるのは
社会生活上適切ではありません。

社会生活において

権利意識の遂行は
義務の遂行と表裏一体です。

だから

マナーという概念が
存在するのです。

そういうものを無視して
自分の基準だけで発言し
行動していては

自分が社会から
厄介者扱いされるのは当然です。

自分のことばかり考え
行動するのが当たり前

になってしまうと、

他人は
自分の期待通り思い通りにはならない

という

ごく当然の
人間関係の法則の中に過ぎない
世の常のなかでさえ

散々にストレスフルな
生活に浸ることになります。




サムネイル
 

お子さんには是非、自分のことばかり考えていると自分の首をぎゅうぎゅう絞めることになるということを芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を引用するなどして教えてあげてください。