「戦場では
敵だけではなく、

亡くなった
仲間への思いやりさえも
持てなかった。

それが戦争の
むごたらしいところだ。

それほど
惨めなものはない」








 「キティ・ジェノヴィーズ事件」をご存じでしょうか。


これは、1964年に米国ニューヨーク市のクイーンズ区で発生し、人の心の深い闇が垣間見えた事件です。


女性が仕事から帰宅する途中、自宅近くの路上で暴漢に襲われて殺害されたのですが、この事件が後々までも取り上げられた背景には、


彼女が犯人に攻撃されるのを目撃した人が多くいたにもかかわらず、誰一人警察に通報しなかったという震撼とする事実がありました。





他方で、人は自分の命を犠牲にしてまで他人の命を助けることがあります。


命とまではいかないまでも、

私たちは互いに思いやり、誰かを援助したり、物を分け合ったり、困っている人を救助したりといった状況を日常生活で経験しています。


これは向社会的行動(Prosocial Behavior)と呼ばれます。



こうした心は

どのように

発達していくのだろう。




 

  ずるい、ずるくない      


 子どもたちの日常生活を観察していると、しょっちゅう〝いざこざ〟があります。物の取り合い、遊びの順番でのトラブル、おやつが多い少ないなどの不平といった場面です。


そこで多く発せられる子どもたちの声は「ずるい!」という言葉です。


一体子どもたちにとってどういうことが「ずるい」と認知されるのでしょう。



分配における正義のことを、分配的正義(Distributive Justice)といいます。


私たち大人は、クッキーが一つしかないとき、子どもが2人いれば半分こにしようとします。


つまり「同じ数ずつ分けるのが良い(均等分配)」という考えが習慣付いています。


しかし、

子どもによっては


「たくさん頑張った方がたくさんもらうべきだ(公平分配)」


「おなかがすいている子がたくさん食べればよい(必要に応じた分配)」


「あの子はいつも食べられないから、全部あげてよい(愛他的分配)」


「自分だけ欲しい(利己的分配)」


といったさまざまな

主張があるわけです。


こうした分配に関する正義は

大人との関わり方や教育に影響されますが、



利己的分配から均等分配、公平分配、必要に応じた分配や愛他的分配へと発達していく道筋があることが分かりました。



自身を理解するには

他者を理解することが必要であり


どれくらい相手の立場や視点に立てるかという役割取得能力(Role-Taking Ability)を育てることが、


対人関係のトラブルや葛藤を解決すると考えられています。




プログラムではパートナーインタビュー、ペアでのロールプレイ、相手を想定した手紙を書くなど、他人の視点を取るワークを中心に実践しソーシャルスキルを学ぶ機会を与えます。


望ましくない行動をしてしまうのは、


悔しさ、怒り、悲しさ、惨めさなどのネガティブな感情に翻弄(ほんろう)されてしまうからです。


こうした

感情を調節できるスキルを発達に応じて学べるようなカリキュラム、指導案、教材などを、志を同じくする仲間や大学院生と協力して開発し、効果を検証している最中です。


日本でも、こうした取り組みを参考にして、子ども、ときには大人を対象にトレーニングを実施しています。


子どもたちの心の発達にはまだまだ不思議なことがたくさんあります。


子どもたちの持つポテンシャルに鍵をかけてしまうことなく、伸び伸びと成長できるよう支援していきたいと思っています。

 (初出:広報誌『法政』2022年3月号)






0歳から6歳くらいの子どもたちの発達を見守っていけるようなシステムを作っている会社です。


あまり大人の都合とか作り手の都合で育てるんじゃなくて、


そのものが育ちたいというものを

しっかり見守って信じて、

フォローしていくような。



私は海外で仕事をしていたのですが、戻ってきてから環境をよくする仕事をしようということで、それをやっているうちに、どうも環境が悪いのではなくて、環境を壊している人間の方が問題じゃないかと気づくわけですよ(笑)


子どもの方が正直で素直なので、環境を汚したりとか、環境を壊したりとかって、子どもたちは基本的にはそういうことをしようとはしないんですよ。


ということは、そのときの子どもたちがもっと自然に自分らしく生きられるような環境を作れば、世の中が変わるんじゃないかと。


そこがこの仕事をやろうと思ったきっかけです。





先日、仕事は自己管理であることを深める機会があった。

正確には



「自律」ということであろうと思うけれど、自らのことを自らで管理できるかというのは


人生を自ら納得していくためにも、

とても大切なことであると 

私は思う。


例えば、ちょっと嫌なことでも 

それを自らで律して 

実行することができる人は


いつもちゃんと

流されずに正しく

日々を積み上げていく

ことができる。



すぐに嫌なことから逃げて

避けて通ろうとばかり考えている人は


いつも自己管理ができず

流されてしまうから

日々が積み上がることがないのです。


この日々の積み上げというものは

とても大切なことで、


人生は

この日々そのもの 

といってもいいのだから


どのように過ごしたか、

またはどのように

決めたことをやり続けたか


ということは


自分丸ごとの人生を

どのようにするのかを

自らでコントロールしているかどうか

によるのだと思います。


自分を

コントロールする力

というのは


幼少期から

身に着くもの 

で大人になってもそれができない人は


いつもそのことで 

人生が好転せずに苦労しています。


小さなことをやり続けるというのは  


続けている間、

決意が維持できているのであり、


継続するということ 

そのものが力である

ということなのだと思います。



本物は続く

という言葉もありますが、


本気、本心、本音、本格、本当


この『本』がつくのは、

自らを欺かず

自らを偽らない


正直で素直なところで

本意であるから可能になる

のだと思います。

すなわち


自分というものを

どう慎むのか

というのは、


人生を自らで

自己管理するために必要

なのだと思います。





誰かのせいにし

何かのせいにして


いつも言い訳ができるところで

何かをやっていることほど

寂しい人生はありません。


 

大切なことは、


誰にも

言い訳をしなくてもいいくらい


自らを善く知り

自らと素直に

対話できている


ということだと思います。






それは

感情と心との調和が保たれている

と言いかえることもできます。


つまり


何を自己管理や自律と

定義するかというのは、


全体が善くなるために

自分の感情と心に素直に

折り合いをつけていくようなこと

を言うのだと私は思います。


人は皆、

外部の影響を色濃く受けてしまう。


だから、


この自己管理や自律ということを

幼いころの環境を通して


子どもに

身につけさせて

あげることが

思いやりである


のだと思います。



幼いころの苦労は

買ってでもしろではないですが、



環境に

言い訳しない人になる


ということは

それだけ大事なことなのだと

今では思います。



そして自然の傍でそういう全体との繫がりを学んでいくことで



 

人は

自分勝手では

生きられないことを

学びこむ

のだと思います。