1953年~1954年にかけて公開された映画「君の名は」3部作が大ヒット。
「忘れ得ずして忘却を
誓ふ心の
悲しさよ」
岸惠子さんの母親は、
風呂水に浸けた掛布団で
岸惠子さんをくるみ
「1人で寝ている隣の家の赤ちゃんを助けに行くから、先に逃げて」と、
集合場所に
先に行くように言いました。
岸惠子さんは爆風の中、
阿鼻叫喚となっている一帯を目にしながら集合場所の公園へと向かったといいます。
公園の石段に斜めに傾いて座り込んでいる若い女性がいました。被(かぶ)っている防空頭巾が燃えていました。夢中で肩を揺すぶると、そのまま私の方へ倒れ込んできた。
防空壕にいた人は爆風や土砂崩れで、ほとんどが死にました。
「今日で子どもはやめよう」と決めました。
大人が止めるのに逆らって地獄へ飛び出した私は
生き残ったんですから。
そして、
お隣の赤ちゃんを連れた母親と
無事再会できた岸惠子さん。
ショックからか、以降の記憶がプッツリと途切れているとも語っています。
無事戦争を生き延びた後は、
高校在学中に小牧バレエ団に通ってバレエを習ったり、小説家を志して書き物を書いたりしながら
映画に興味を持つようになり、
のちに役者となる田中敦子(のちの小園蓉子)さんと松竹大船撮影所を見学に行きます。
その際に映画監督・吉村公三郎さんからスカウトされて一旦断りますが、「本物の女学生に出演してほしい」と依頼され、「1本だけなら」と1951年に松竹に入社します。
そして、同年公開の映画「我が家は楽し」で役者デビューを果たしました。
デビュー当初は「大学入学まで」という約束でしたが、同作が大ヒットしたことでそのまま役者の道に進むことになり、翌1952年公開の映画「坊ちゃん重役」ではヒロイン役を務めます。
イヴ・シャンピさんは、1956年公開の映画「忘れえぬ慕情」で出会った岸惠子さんを撮影休みのタイミングで食事に誘い、その場でプロポーズ。
日本も素晴らしいけど、
地球上には色々な国があり、
生き方がある。
僕が招待するから
ヨーロッパやアフリカを
一緒に見てみませんか」
「卵を割らなければ
オムレツは作れない、
という諺がある。
色々な国を見て、
それでもやっぱり日本がいい
思わず「そんなことしていいの」と返すと、イヴ・シャンピさんは
「あなたは自由
阻むものがいるとしたら
それは
あなた自身だけ」
と答え、
この言葉で岸惠子さんは
恋に落ちたそうです。
岸恵子さんの名前を轟かせた作品は、1953年に上映された映画『君の名は』
圧倒的な美貌から
一躍有名女優となりました
1957年、フランス人のイヴ・シャンピさんと結婚。11歳年上の夫のイヴ・シャンピさんは映画監督でもあり医師でもあったそうです。
お二人の出会いは、日仏合作映画『忘れえぬ慕情』の撮影がきっかけでした。
当時は、国際結婚がとても珍しい時代。さらに古風な役柄を演じた岸恵子さんにとって、国際結婚はイメージダウンにもなり兼ねないスキャンダル。
そのため二人は密かに交際を始め、やがて婚約。結婚発表も行わずにフランスへ渡ったそうです。
結婚した当時岸恵子さんは25歳。
フランスで行われた挙式での
立会人は川端康成氏
国際結婚した岸恵子さんは、日本とフランスを行き来しながら女優活動を続けてきた当初は主婦として家事もしていたとか。
しかし、夫や夫の母親から「女性は手を大事にしなければならない」と忠告され料理も出来なくなったそうです。
そんな中、10歳になった娘のデルフィーヌ・麻衣子さんが突如失踪。
ようやく発見された娘さんですが
失踪した理由は
父親イヴ・シャンピさんの浮気
父親の浮気を知り深く傷付いてしまった娘が、思い悩んで行方不明になったというのです。
愛人の存在が発覚したイヴ・シャンピさんは、妻の岸恵子さんに謝罪したそうですが、岸恵子さんは「夫の浮気が原因で、このままでは娘を傷付けてしまう」と離婚を決断。
あんな女でコト足りるなら、あたら短いこの命、なにがかなしくパリくんだりで、
女を捨ててあくせくと、
裏方さんの裏方で、
内助の功と取っ組んで、
朝は早よから夜おそくまで、
ケイコの料理は絶品と、
おだて、すかされ喜んで、
あげくの果ての愛し子の、
失踪事件で報らされた、
アッと驚く夫の事情。
日本語でつらつらとまくし立てられたイヴ・シャンピさんは、「日本語で言われてもわからない」「フランス語で言ってくれ」と慌てたそうです。
岸惠子さんは続けて
「あたしゃあんたに惚れちょるばい。惚れちょるばってん、言われんたい」と返したといいます。
岸さんは娘と愛犬、そして嫁入り道具として母からもらった三面鏡だけ持って夫の家を後にしました。
シァンピ家のものは、紙一枚、スプーン一本持ち出しませんでした。
さあ、これからが私の出番だ! と思いました。もちろん別れというものはつらいですよ。
だから、慰謝料も養育費も、金銭はいっさい受け取りませんでした。
そうしたらイヴが、「せめて、(娘の)学校の授業料だけは払う。これは義務であると同時に、父親としての権利でもある」と言いましたが
ジャンジャン働いて、2年で打ち切ってもらいました。
離婚後、パリで一人娘を育てるために、夫を失った悲しみを癒すために、女として自立するために遮二無に働いていた頃、ある日ぽっかりと休みができたので、豪勢なブランチを作って大学生の娘を呼ぶと…
”娘は大きな瞳で、じっと私を見つめた。
「思いつきの”家族ごっこ”はやめましょう。私はいつも一人でコーヒーを飲むことに慣れてしまったの」
私は呆然として立ちすくんだ。
仕事に夢中になり過ぎて、この世で一番大事な娘を、ほったらかしにした不埒な母親であったことに気づいて愕然とした。”
お互いに、愛と理解と尊敬が離婚後のほうがいいかたちで深くなったと思います。
親の離婚が娘に与えたショックは、計り知れないと思っています。
”「家族」というものが
陸みあって暮らすことが、
私の果たせない夢であったし、
これからも
果たせることのない
「夢」なのだろう”。