現代の情報通信機器には利点もあれば欠点もある。
利点とはもちろん効率的でコストが安く、軽々と空間的な制約を超えられることだろう。
得たい情報はすべてインターネットの中にあるし、場所の情報を入れれば、今いる地点から最短の経路で案内してくれる。
世界中で自分の好みに合った友人を選べるし、興味のあるグループに簡単に参加し、しがらみを持たずに抜け出すことができる。
これまでのような集団に入るための面倒くさい手続きや、脱退する際の厄介な人間関係を省略できる。
しかし、ネットワーク型の人間関係は相手のことをよく知らないため誤解が生じたり、期待が裏切られたりすることがよくある。
中心ができないから意見がまとまらないし、意見が対立するとすぐに炎上する。
言葉や情報だけで
つながっていると
相手も自分も
いったい
どういった
人間なのか
実態が
分からなくなって
混乱する。
ネットの中では老人にも子供にも、男性にも女性にも、外国人にだってなりすますことが可能だからである。
詐欺や犯罪に巻き込まれることも注意しなければならないし、ネット通信だけに頼っていると生身の相手に会うのが怖くなったりする。
結局、SNSでつながる相手とは信頼関係を構築することはできないことを自覚するべきなのである。
ただ、いったん言葉を持った人間がしゃべることを止められなかったのと同じように、現代の便利な情報通信機器を手にした私たちは
もはやこの技術を手放すことは
できないだろう。
だとすれば、
この技術の負の側面をなるべく抑えながら、その利点を賢く伸ばすことに心がけたほうがいい。
グローバル時代の申し子ともいえるこの技術は、
国、文化、言語、宗教の壁を超え
て物や人の動きを加速し、
新たな人々のつながりを
作っていくだろう。
とくに重要なのは、自分の出自や生物学的な特徴に束縛されない自由な表現とアイデンティティが可能になることである。
ネット社会は格差が見えにくいし、自己をどのようにも表現できる。
仮想空間と現実空間のすり合わせによっては、ネットで理想的な社会の見取り図を描き、それを現実の社会に実装することによってさまざまな問題を解決できるかもしれない。
過去の映画が現代を予言し
そのいくつかが実現したように
ネット内のフィクションは
未来を引き寄せる力を持っている。
近い将来、
ジェンダーの格差を解消するばかりでなく、LGBTが社会に当たり前の人間として受け入れられるようになり、人間関係の在り方は大きく変わるだろう。
その時、
家族と共同体は
どのようになっているだろうか。
人の移動が激しくなれば、人々は物を持たなくなり、かわりにシェアリングが増えるだろう。
今でもその傾向は顕在化しつつあり、若い世代は車も家も持たない。
狩猟採集民が必要最小限の所有物しか持たないように、未来の遊動民は所有を拒み、一か所に定住することを避けて複数の生活拠点をもつと思われる。
しかも、遊動するのは個人か家族単位なので、そこには地縁的な共同体は形成されにくい。
人々は SNSで連絡を取り合い、さまざまな縁で結ばれるネットワークの中で暮らす。
ただ、
たとえ一時の
住処であろうとも、
人々が隣人と暮らすには
それなりの礼儀と秩序が必要であり
そのための新しい暮らしの
マナーが必要となる。
それを地域ごとに作るのはそれほど難しい作業ではないはずだ。
問題は
家族の在り方である。
前述したように、人間の家族は単独では存在できず、複数の家族が集まって共同体を作るからこそ、大きな社会力を発揮できた。
そのもっとも大きな役割は共同育児であり、これまで幼児死亡率が高い環境で多産の特徴を発揮しつつ生息域や人口を拡大してきた。
その共同育児に大きな力を発揮したのは老齢者であり、それゆえに老齢者の介護が重要視され、寿命が延びる結果となった。
つい最近まで、人間は多子高齢社会を営んできたのである。
だが、
現代までに環境は大きく改善され、
幼児は死ななくなり、
先進諸国では出産率が低下して、
かわりに
老齢者の割合が増加するようになった。
日本でも少子高齢化による経済力の低下、労働力の不足や過疎による地域の消滅が懸念されている。
遊動社会でおとなたちは自由な移動と束縛の緩やかなネットワークを満喫するかもしれないが、子供たちはそうはいかない。
スマホゲームに夢中になってるのか知らないけど、
子供よりゲームとかスマホいじりや情報収集が大切なの?
たかだか
データに振り回されて
データに縛られて
データを大切にして
データに操られて生きていくのと
子供の笑顔を見ることのどっちが大切なん?
そんなにスマホゲームをしていたいなら
子供も家庭も捨てて
いっそスマホアプリやゲームとともに人生を歩んだら?
人間の子供は親以外に多くの人々の手で育てられるように生まれついている。
生後すぐに大きな声で泣くのは、親から離されて不具合を訴えるための自己主張だし、赤ん坊に話しかけるおとなの声は言語の壁を超えて一様の特徴を持っている。
頭でっかちの成長の遅い人間の子供は、長い離乳期と心身のバランスが崩れる思春期に多くのおとなたちの支えが必要となる。
こうした子供たちの育児を通じて
人々は自己を犠牲にして
未来に託す共同の精神を育んできた。
それが地域共同体という存在なしに継続できるだろうか。
現代でも家族の孤立は深刻な問題である。
スマホいじりが大切なら
家政婦でも雇って
家でスマホを心行くまで
いじり倒していたらいいじゃない?
親は子供を自分の所有物のように扱い、コントロールが効かないと折檻をして虐待に発展する。
学校でいじめられた子供は親元しか頼れず、引きこもって社会と断絶する。
地域の輪が子供の成長に全く貢献していないので、子供たちが極めて狭い世界で生きることを余儀なくされている。
人間の子供にとって
長い成長期に
自分が世界に
受け入れられているという時間
を持つことが不可欠である。
筆者が語り続けてきた「自分が自分であって大丈夫」という規定は、存在レベルの肯定である。
機能レベルの肯定ではない。
「できる」とか、有能だとか、役立つとか立たないとか、そういうレベルのものではない。
むしろ
そういうレベルで評価されることなしには
「存在」 が
許されないかのような
状況への批判を込めた自己肯定感
なのである。
それはまず親によって開かれ、次に地域の人々によって文化を身体化しながら実感していく。
その仕組みがなければ、
子供たちは社会の中の自分の位置を確認できないまま、おとなにならざるを得ない。
子供に対する性的虐待も現代の大きな問題の一つである。
霊長類の子供は、生物学的な親を生まれながらにして認知することができない。
親の認知は、幼児期に親密な関係を持続的に結んだおとなに対して起こる。
とくに、思春期にこの認知は異性の親に対して性的な関心を減じ、近親相姦を回避するように働く。
親も幼児期に親密な世話をした子供に対して性的な関心を抱かなくなる。
同様の現象は人間にも知られていて、「ウェスターマーク効果」と呼ばれている。
未来の社会で、性交渉、出産、子育てが分離して行われるようになると、幼児期の世話を通じたインセスト(近親間の性交渉)の回避が発動しなくなる。
しかも、共同体の力が弱ると、これまでインセスト・タブーとして共有してきた制度が働かなくなる恐れがある。
子供を性的な暴力から守るルールを新たに作る必要が生じる。
冒頭で述べたように、
未来の家族は性交渉を通じて子供を持つ必要はないし、親が複数である必要もない。
しかし
人間の子供が
人間として育つためには、
志を同じくした多くのおとなたちが親身になってかかわる必要があり、
それには時間がかかるということを忘れてはならない。
家畜や栽培植物と同じように遺伝子組み換えや遺伝子編集によって人間の子供の成長速度を速めてはいけない。
そこには
遺伝によらないさまざまな学びが
自然の流れる時間に沿って
用意されているからだ。
父親だったらそれが当たり前だろう?
って、私の中の考え方がこういう風に偏っている(笑)
そんな私の父親はそんなことをするタイプじゃなかったw
クソおやじだった。
遊んでもらった事もないし、病院にだって連れて行ってもらったことがない。
ただのクズ親父だった。
まぁでも、五体満足動ける肉体があるんだったら、
一緒に遊んでやれよ。
しょーもない父親だな。
その過程を多くの人々が協力し合って進める仕組みを未来の社会でも維持しなければならない。
それを情報通信技術と身体を用いたコミュニケーション手法で実現することが、今、問われている課題だと思う。
ジェンダーは
共同の子育てに基づいた社会を構築する過程で顕在化した。
今後はジェンダーを顕在化させない社会で、共同の子育てをどう実現させるかが課題となる。
やがて親という社会的認知に性の自認や分化が必要ない社会になるだろう。
しかし、
共同体の影が薄くなった社会では
親になる資格を
厳しく問い
子育てをする者どうしの
ネットワークを
緊密にする仕組みを作る必要がある。
それがどういうものになるか、これからの議論に期待することにしたい。
情けない父親が多いなって思う。
自分の子供を見てやれよって言いたい。
と、公園の中心で声に出してしまったらそこら中の父親をすべて敵にまわしてしまいそうだな(笑)
なんて事を考えながら過ごした日曜日だった。
毎回思ってるな( *´艸`)
もっと子供とのコミュニケーションを大切にしたらいいのになって
本当に思うわ。
もちろんちゃんと遊んであげている父親も多数いる。
そういう父親が増えると良いんだがねぇ。。。
出典
休日に子どもと遊びまくる自分に自己陶酔するが妻には勝てません
ー二児パパの子育てブログー