iPS細胞研究所の藤田みさお教授が発表した「人工生殖細胞作製の倫理─社会でさぐるいのちの未来─」という話題が強く印象に残っている。

提示された合成写真は、
女性二人と
子供二人の家族だった。

藤田教授によると、これは未来の家族の 1例だという。

女性二人は同性婚で、子供二人は正真正銘のこれら二人の女性の子供である。

生殖医療技術の進歩はやがてこれを可能にするという。

一方の女性の体細胞からiPS細胞技術を用いて精子を作成し、もう一方の女性の卵子と人工授精を行い、その卵子を体内にもどして出産させる。

今度は逆の組み合わせで人工授精を行う。こうすれば、双方の女性の体細胞から作った精子と卵子で子供が生まれ、二人の女性は子供たちの生物学的な親となる。


どちらも父親であり母親であって、二人の遺伝子を受け継ぐ子供が確実に生まれ、家族が構成されるというわけだ。

ここに男性の関与はない。

私は一瞬背筋が凍り付いた。





つまり、男性を必要としない時代がやってくるということか。

ただ、この例を裏返して考えてみれば
男性二人のカップルでも子供を作ることができる。

男性の体に子宮を移植して妊娠を経験させることは難しいかもしれないが、不可能ではない。代理母や人工子宮、孵化器という手段もある。

日本では現在、18人に一人が体外受精で誕生している。

将来はセックスを伴わない妊娠や出産が常識になり、親の性別を問わない家族が急増するのではないか、
と予感させるような発表であった。


同性カップルの家族を多く含む未来の社会とはいったいどういうものなのか。

そもそも家族とはどういう背景と必要性から生まれてきたのか。

それが現代どのように変容しつつあるのか。

未来へ向けてさまざまな問題を検討してみなければならないのではないか。

技術が先行して
社会が作られようとしている現代
その議論が不可欠であろう。


人間の社会力の源泉は、
家族と地域共同体という二重構造にあったと私は思う。

人間の家族は独立しては存在し得ず、どの社会でも他の家族と密接なつながりを持って地縁的な共同体を形成している。

しかも、家族や親族は結婚を通じて他の共同体とも新たなつながりをもつ。

嫁や婿として家族のもとを離れた者も、他の家族の中で暮らしながら元の家族とのつながりを継続する。こういった複雑で持続的なネットワークは人間以外の動物の社会には認められない。


人間に最も近縁なチンパンジーやゴリラでも、

家族と共同体という
二重構造の社会はもっていない。

ゴリラは家族的な集団を作るが、集団どうしは交わらず、敵対的な関係を保つ。チンパンジーはコミュニティと呼ばれる大きな集団を作るが、そのなかに

家族に匹敵する単位は認められない。

唯一、乾燥した草原で暮らすゲラダヒヒやマントヒヒが、単雄複雌の構成を持つ小集団がいくつも集まった重層構造を持つ大集団を形成する。

しかし、これらの大集団はライオンなどの地上性の肉食獣から身を守るために作られる集合体で、小集団どうしが協力しあい、大集団の中に小集団とは別の連携機能を持
つ集団が作られるわけではない

なぜ、人間以外の霊長類に家族と共同体という二重構造を持つ社会が見られないのか。

それは、家族と共同体の
存続原理が異なるからである。

家族は
繁殖と子育てを目的とした組織で互いに見返りを強く期待せずに奉仕しあうことが前提となっている。

一方、

共同体はルールに基づいて互いの役割を果たし、恩恵を受ければそのお返しが期待される。

この二つの原理は拮抗することがあるので両立させることが難しい。

それを可能にしたのは、
人間が互いの気持ちや置かれた状況をよく理解しあい、

どこかに偏りがちな負担を時間をかけて解消するような仕組みを作ったからである。


それはひとえに共感力の向上と、ストーリーを作り共有する能力のおかげだったと私は思う。

これらの能力は人類の進化史の中で比較的古い時代に作られた。

類人猿が未だに生息し続けている熱帯雨林を人類の祖先が出て、食物が分散し、地上性の肉食獣に襲われやすい草原へ進出していった時代に鍛えられたと思われるからだ。

700万年前、人類が最初に手にした独自の特徴は直立二足歩行である。  

これは長距離をゆっくりした速度で歩き、自由になった手で食物を運んで、安全な場所で仲間と一緒に共食するのに適していた。  

類人猿は時折仲間の間で食物を分配するが、食物を運ぶことはめったにない。  

食物を運ぶことで、人類の祖先は仲間を信頼し、互いに期待しあう能力を発達させたのではないか。

そして、まだ見えない食物を想像することで、食物をめぐるストーリーを仲間と共有し始めたのではないだろうか。

それは、
道具や火の使用、調理とともに拡大された。人類最初の石器は狩猟具ではなく食器であり、肉食獣が食べ残した獲物の肉をはがしたり、骨を割って骨髄を取り出したり、植物を切って細かくするために使われた。生の食材は調理を経て消化しやすい形に変えられ、仲間の関心を引き付けるようになり、食を共有する共同体が生まれたのである。


人類の祖先が獲得した
もう一つの能力は多産である。

草原には類人猿が登って安全を確保できる樹木が不足するので、肉食獣に狙われやすくなる。

犠牲になるのは幼児だから、たくさん子供を作らなければ絶滅してしまう。餌食になる動物が多産なのはそのための戦略である。

人類は一度にたくさんの子供を作る方法ではなく、出産間隔を縮めて何度も子供を産む道を選んだ。

そのために、赤ん坊を早く離乳させて排卵を回復させた。  

類人猿の赤ん坊が 4 ~ 7年も授乳するのに対し、現代人の赤ん坊は 1 ~ 2年で離乳してしまう。

その結果、永久歯が生える6歳まで、離乳しても人間の幼児は硬い食物が食べられない。乳歯で噛み砕ける柔らかい食物を与えなければならず、なかなか自立できない。


さらに、200万年前に脳が大きくなり始め、身体の成長に回すエネルギーを脳の急速な成長に投入する必要が生じた。

脳が大きくなった理由は、日常的に付き合う仲間の数が増えて社会的複雑さに対応するように脳容量、とりわけ新皮質の割合を増やしたという仮説がある。

また、肉食や調理によってエネルギー価の高い消化しやすい食物を摂取できるようになって、脳に多大なエネルギーを送ることができるようになったという背景もある。

しかし、
このころには直立二足歩行が完成していたので骨盤の形が皿状になり、

産道を広げられなくなって頭の大きな赤ん坊を産めなくなっていた。    


そこで、出産後に急速に脳を成長させるようになったため、その分さらに身体の成長が遅れることになった。

以後、脳が増大するにつれ、
人類は頭でっかちの成長の遅い子供をたくさん抱え、とても母親だけでは育児ができず、おとなたちが共同で育児を分担するようになった

というわけである。
つまり、

食と育児の共同が家族と共同体という二重構造の社会を作ったのである。それが集団の規模を増大させ、脳容量を増加させ、社会力を増強させた。

人類の祖先が最初にアフリカ大陸を出たのは今から 180万年前で、そのためには熱帯雨林を遠く離れ、広大な草原を渡っていかねばならなかった。

そのころには、家族と共同体の原型が完成されていたはずであり、以後ずっと人類はこの社会力の恩恵にあずかってきた。


約 1万 2千年前に農耕・牧畜が始まるまで、人類は狩猟採集生活を送ってきた。現代人ホモ・サピエンスが登場したのは 20万年前のアフリカであるが、現代人並みの脳容量は 40万年前のホモ・ハイデルベルゲンシスの時代に達成されており、それは 150人ぐらいの集団で暮らすのに適しているという仮説がある。

現代でも、
狩猟採集生活を続けている人々はやはり 150人程度の集団で暮らしていて、これは 10 ~ 20家族が集まる規模の共同体である。

人類が現代のような言葉をしゃべり始めたのは 7 ~ 10万年前と言われているので、言葉の登場が脳を大きくしたわけではなく、

脳容量の増大と
おそらく人々の
交流の増加
言葉を生み出したのだろう。


人類は古来、信頼できる仲間の数を増やす方向に進化してきた。

それが脳容量を増加させ、言葉を誕生させた。そして、言葉やシンボルを駆使するコミュニケーションは、

芸術や哲学というこの世を解釈する方法を人間に与え、

文字を作り、数々の科学技術を生み出してきた。それはひとえに、食糧生産とエネルギー革命によって集団や人口の規模が急速に増大したことに対応する現象だった。

ただ、この間も家族と共同体という二重構造の組織が、どの社会でも基本となっていた。

それは、

いかにこの組織が人間の暮らしや心を支える下部構造として機能してきたかを示している。

19世紀の中盤、
チャールズ・ダーウィンが進化論を発表し、人類も進化の対象と考えられ始めたころも、人類に普遍的な社会の単位は家族と見なされていた。

しかし、150年前に電話が発明され、40年前にインターネットが登場して、人々の空間的なつながりは爆発的に拡大した。

その結果、

家族も共同体もその存在が希薄になり、人々の暮らしを支える拠り所として機能しなくなりつつある。
 
それは、良くも悪くも人々が身体的なつながりより脳によるつながりを重視し始めたせいである。

それまで、人々の暮らしは身体による、すなわち五感によるつながりで保たれていた。

衣食住は文化の具体的な表現であるが、家族や共同体によってその色合いや形式が決まっている。

それを身体化することで、人々は無意識のうちに一体感、連帯感、信頼感を紡いできたのである。

また、それは将来の担い手である子供たちをともに育てる行為によって醸成されてきた。


実は、ジェンダーはその地域文化を身体化する過程で、人々の意識の中に深く埋め込まれてきた歴史を持っている。




狩猟採集文化も農耕牧畜文化も、食料採集や食料生産をする過程で男女の役割を分化させ、男と女を家族に平等に振り分けることによって暮らしを成り立たせてきた


服装は役割の分化を明確に示し、家は家族の単位を際立たせる装置だった。そして食は共同体が責任と義務い、子供たちを共同保育するために欠かせない日々の要素だった。

食の恵みは、お祭りという形で皆が祈り祝ってきた。「村八分」という罰は、こういった身体的なつながりから特定の者をはじき出す掟であった。

近代の通信情報機器の発達は、こういった身体的なつながり、因習的な関係から人々を解放し、共同体の外の人間とのつながりを拡大した。

衣食住といった五感を用いて人々のつながりを作る仕組みも大きく変わった。

服装が自由になって、年齢や性別を表さないファッションが普及した。

冷凍食品や電子レンジなど、自ら食材を集めて調理しなくてもいい技術が登場し、コンビニエンスストアや外食の普及によって、いつでもどこでも好きなように食事ができるようになった。

それまで大工、左官屋、畳屋などさまざまな職人が集まって造っていた家は、建築会社がデザインから建まで一切を受注し完成させるようになった。おかげで家は建築会社と家主との話し合いによって決まり、隣人たちはそれを見ることも口出しすることもできなくなった。

家々は独立して存在し、都会ではもはや隣人たちの顔も知らないことが当たり前となっている。


かつて、今西錦司は動物の社会から人間家族が成立する条件として、外婚制、近親交配の禁止、男女の分業、近隣関係を挙げた。

その近隣関係がもはや風前の灯火と化しているのである。 

家族が地域共同体と切り離されてばらばらになれば、それぞれが自分の家族と他の家族を差別化して、その独善的な振る舞いが表面化する。

家族が解体してしまえば、共同体におけるルールの遵守が強調され、義務や権利をめぐる争いが深刻化する。

個人が自分の利益を高める相手と組むことが集団の編成原理になれば、集団は利益共同体として閉鎖的にならざるを得ない。

現代は個人の欲求を開放し、なるべくそれを満たすようなビジネスが繁栄しつつある。

個人が集団を頼らずに制度やルールで自分を守るようになれば、期待値ビジネスが花を咲かせる。

人々はインターネットを通じて世界の市場に参入し、個人情報をグローバル企業に譲り渡している。

その結果、
人々自身が情報化してヴァーチャル空間の中で均一化し、個々の人間としての個性を失って操作される対象となりつつあるのだ。








現代は、インターネットなどの仮想空間の方が現実空間よりもリアリティを増しつつある。










   

その中で人々は性差や年齢を超えて多様な関係を作りつつある。


五感を通じた身体性ではなく、頭で作り出したシンボルやアバターによって個人の体験や物語が作られる。



ジェンダーの平等という課題は

そういった世界を背景にして

考える必要がある。




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そんな些細なことで「自分はダメだ」と思い悩むのか。。。


自分を何様だと思ってるんだ!!