魅惑の低音で
女心に火をつけた〇〇さん






40年代に入って
男の真心を謡いました。

そしてこの曲は50年代
カラオケ時代に再び蘇りました。

『おまえに』

  






自己肯定感という概念を切り口にして,今の子どもや若者たちの問題を見るときに,その問題の本質と彼らの置かれた状況がよくみえてくるように思われた。

カウンセリング論や心理臨床論の授業のなかで,こうした感じ方や体験世界の話をすると,わがことのようにそれを受け止める者が少なくなかったのである。

社会的ひきこもりという状態そのものが学習や労働,人間関係の構築などの機会を奪い,人間発達や自立への道程にハンディをもたらすという問題がある。

しかし,援助者の視点からすれば

その問題解決の途上に
大きく立ちふさがるものがある。



それは

当事者がそういう状態から立ち直っていく主体になるうえでの大きな困難を抱えているという問題である。

言うまでもなく,そうした状態から立ち直り,自らを解放していく主体は彼ら自身なのであり,

周囲の親や教師,カウンセラーや援助者はそれを手伝う脇役でしかない。

その援助の仕事は,

調子の悪くなったテレビを直すような仕事ではない。

テレビを直す仕事では,直す主体は人間
であり,テレビは直される受け身の客体でしかない。

人間の場合は,「直す」主体はその当人である。

その認識を欠いた押しつけがましい一方的な「援助」が

いかに侵襲的に主体者たちを追い込んでいくかという例を筆者はいやというほど見てきた。


 

当人が

自分で自分を

「直して」いく主体になろう

とするときに


もっとも障害になるのが

「自己否定の心」である。





多くの当事者たちが,自分を「ダメな奴」と責め,貶し,否定している。

そのうえ親や教師の期待や「働かざるもの食うべからず」といった社会的規範に応えられない自分「負い目」や「罪悪感」を感じている。

このような彼らの自己否定は,
「自分にはこういうダメなところがある」という部分否定ではない。

「ダメな奴」「情けない奴」という風に,丸ごとの自分を責める自己否定なのである。

そのような自己否定にとらわれると「ダメな自分」をますます人前に出せなくなり一層社会からひきこもることになる。

「出て行かねばならない」と思いながら出ていけない葛藤の泥沼にはまり込んで身動きつかぬ自分を「どうしようもなくダメな奴」とさらに否定するという、自己否定の悪循環に陥っていくことになる。

そうすると,そういう自分をこの世から消したくもなってくる。

このような自己否定スパイラルに陥らないように注意を払い,さらに自己否定の心から彼らが自分を解放していけるように援助することが,その要諦である。

こういう援助の


要諦見失わないように
彼ら自身の内面の状態に目を据えよう
とする概念


「自分が自分であって大丈夫」 
という
自己肯定感である。


彼らの内面に「自分が自分であって大丈夫」という


「安心基地」が

築かれるように援助すること


それを抜きにした取り組みは

上滑りし


一層彼らを 

焦りや自己否定の心

に追い込んでしまう


危険性を

秘めているのである。





当人たちが自分の能力・特性を他人と比較して「とてもよい」と評価できず,あるいは自分なりの基準「これでよい」と評価できず,自分に対して誇りや自信をもてないという自己評価の低さがしばしば問題にされる。

それも問題といえば問題でありえる。とくに教育現場ではそうであろう。

しかしより深刻な問題は
  
当人たちの陥る苦境に端的に示されるように,それが

「自分など存在する値打ちもない」「自分などいない方がいい」という

自己存在の否定にまで及んでいってしまうことである。




男の真心

おまえに




 

 

40年程前の話です。

 私は、ある島で観光用の潜水艦に乗りました。


その潜水艦の観光ツアーには日本語のアナウンスがついていて、窓から見える物(もう使えなくなった船や飛行機などが海底に沈められていました)について説明してくれました。


アナウンサーは、声からして20歳代のアメリカ人男性のようでした。


 

「ミナサ~ンノオ、ミギガワニワア、ヒコウキガアリマス。」

(皆さんの右側には飛行機があります。)




「ソ~シテエ、ミナサンワ~・・・

ソノ~、


ヒッダリガワデ~ス。」


今日は、フランク永井さんの「おまえに」です。




そばに
いてくれるだけでいい
僕のほころび縫えるのは
おまえの他に 誰もない

泣きたいときも ここで泣け 
涙を拭くのは 僕だから

同じ喜び知るものは
おまえの他に誰もない

そばに
いてくれるだけでいい