炭治郎も煉獄さんも、
力を持つものとして倫理的に振る舞えるのは、
彼ら自身がそのように扱われてきたからだ。
そのように扱われなかったら
倫理的に振る舞えないということでは決してないと思うが
でも、
彼らの振る舞いを根っこのほうから支えていたのは、「自分が大事にされ、他者にもそのようであれと励まされてきた記憶」にほかならない。
そういう意味でも、
彼らは力それ自体だけではなく、
環境という面でも「持つ者」だったのだと思う。
炭治郎が鬼の魘夢(えんむ)に、殺された家族から罵られる夢を見せられて、
「俺の家族がそんなこと言うわけないだろう!!俺の家族を侮辱するな!!!」とマジギレできるほど、
家族に対して持つことができた信頼が、
苦しい立場や状況において彼を奮い立たせている。
それは決して選べるものではなく、とても哀しいことだが・・・おそらく鬼にならざるを得なかった者たちと炭治郎とを分けているものである。
そして念のため言っておくが、
炭治郎の場合それが
たまたま「家族」であったけれども、
そういう存在を
「家族」以外に持つ登場人物たちも
作品中には描かれている。
恋愛や結婚「だけ」ならば、例えば
女性からガンガン行く
呼び水行為でコントロールする
ような方法で十分だと思います。
つまり、とりあえず今はとりたてて
「幸せである必要はない」
のです。
私はこどもを持ったからこそ、
女性が幸せであることの必要性を感じます。
対価的な価値基準を持たず
ただ、在りたいように在るだけです。
お金がどうとか、子の教育費がどうとか、共働きじゃないとやっていけないと考える人もいますが、それこそ
スタートから間違っている
のです。
そういう考えで共働きを選ぶ以上、
何を選んでも必ずどこかに何かが足りないという考えに陥るでしょう。
女性の場合、
私も働いているのにとか、
男性に対して気が利かないとか、気が付かないとか、言わないとやらないとか、それでやってるつもりかよとか、
必ず不満が出ます。
男性からしたら、お前がやりたいっつったんだろ
と理解不能なのです。
そこに愛し愛されがないからね。
女性は自分のために、「家族のための」家事をして育児をします。
昨今、ただ家事してると言う、育児してると言う「男性」にお怒りの女性は多いはずです。
彼らは彼ら、「自分」の「やりたい(無理せずできる)」レベルですることしかしないからです。
「こどもを見る」
という同じ「言葉」を使っていても、
母親は、子の生存に敏感ですから
全身全霊で我が子をみます。
危機管理はもちろん、今日1日の成長を嬉しく受け取るものなの。
かたや、男性のこどもをみる、は「同じ空間にいる」程度のことなのです。
お父さんに見ておいてと言ったら椅子から落ちた
お父さんと遊びに行ったら怪我をした
ミルクが溢れてるのに気づかない
など、
あるあるなのはそういうことなのです。
こどもを見る
の、認識が全く違うものなのです。
そういうことなの。だから、同じ時間「こどもをみる」をしても、
単に女性の方が体力的に劣るということだけではなく、神経を使う分、「精神的」に疲れるに決まっているのです。
それを理解できない女性は、男性にも同じことを同じようにしてほしい、そんなの当然でしょと思うのですが、そんなの無理なの。
しかし、女性を愛している男性は、こどもではなく「妻」を見るので、「妻」のやっていること、妻の考え方や価値感を何よりも尊重するので、こどもをちゃんと見ていない、なんてことも起こりません。
そして女性が子育てをしたらどれだけ精神的にも物理的にも疲弊するかわかるので、
家事も育児も率先してやるし、そんな「大変なことをしている妻」を安心させるために仕事も頑張るのですよ。
そんな男性いるって信じられませんか
むしろスタンダードな男性「性」の在り方なのです。
男性が望んでやっていることなの。
さて、
専業主婦は生産性がないとか家計に貢献していないとか、自己実現していないとかいう男女がいるという話をしましたが
男性ならば、上記述べたレベルの「こどもを見る」を育児だと思っているから
専業主婦や女性の育休は「単なる休み」「搾取する存在」としか考えられないのです。
それはもちろん、
自分(男性)の子育てが「暇つぶし程度」と言っているということであり、
その方が妻を愛していないという分かりやすいエビデンスになるのです。
女性ならば、
誰からも心底愛されたことがないために、
「自分は何かしてないと価値がない」「人より頑張らないと認められない」「誰か他人に認められないと価値がない」という価値基準なのです。
そうでなければ、自己実現なんて言葉は使いませんからね。
専業主婦、ワーママ、そんなことは関係ないの。
存在が唯一無二と知っているならば、◯◯しないと愛されないとか、◯◯ならば愛されるとか、そういう次元の話は一切していないのですよ。
そして何を言われても、
そう考えてしまうのは、あなたが愛されたことがないからね
あなたが女性を愛したことないからわかるはずないわね。
概念がない
というのは、理解もしていないし、認識もしていない、存在そのものがないのです。
しかし、私自身は確かに存在しています。
「結婚に向かない男性、結婚に向く男性」なんていう概念がないまま、きちんと存在しているのです。
今日はクリスマスイブですね
サンタクロースは存在しますか?
そう自身のお子さんに聞かれたら何と答えますか
真実を話して下さい。
あなたの真実は何ですか
昨今では、サンタクロースがいるとかいないとかを
「どうこどもを傷つけずに伝えるか」なんて言う親もいるようです。
きっと愛を知らないのでしょうね。
こどもをこどもの世界に置いておけないのですから。
また、白黒思考しかないために、「サンタがいる」と言うことを「嘘をついてこどもをだます」としか考えられないのでしょう。
私も娘に、
サンタクロースは親なのか
と聞かれました。
娘にクリスマスプレゼントを用意し、寝ている間に置いているのは私です。
それをしているのはママか?と聞かれたらそういうことになります。
しかし、私は娘の「本当の」サンタクロースでもあるのです。
娘には「真実」を話しています。それは、
サンタクロースを信じている子
のところにしか
本当のサンタクロースは来ない。
だからサンタクロースを信じず、親だと思っているところの子には本当のサンタクロースは来ない。
けれど我が子がクリスマスプレゼントをもらえないのはかわいそうだから、親が用意している、と。
真実ではないですか
それともただの詭弁
結婚に向く男性、結婚に向かない男性がいるという概念がない女性が確かに存在しているように
私と娘の間にはサンタクロースという概念が確かに存在していて、
今夜もプレゼントを持ってきてくれるということなのです。
サンタは親なのよ。
そうカミングアウトすることでこどもに「真実」を教えるという概念は私にはないし、サンタは親だという概念もないのです。
そして、「信じる」ということが「実在する」ということなら、信じていたら実在するということなのです。
結婚に向く男性
向かない男性がいると信じる人にしか、
その男性は「実在」しないのです。
「そうなんだ。
サンタクロースって、
そういう存在なんだ。」
その本を読み終えた8歳の私は、そう理解した。
とても、印象深い一冊であったのだが、
誰かにあげてしまったのだろうか。
その本は、いつのまにか私の前から
姿を消していた。
サンタも妖精も
「見たことがない」
それは、
いないことの証明にはなりません。
思いやりも優しさも
目には見えないけれど
確かに存在するのです。
いつだって、
信じないことの方が簡単だから
サンタクロースが住む
心の場所を残しておきたい。
愛や
人へのおもいやりや
まごころが
心に「ある」
それとおなじように
サンタクロースも
たしかにいるのです。
参考
「サンタクロースって、いるのでしょうか」
ネタバレレビュー
8歳の少女は大人になり
母親になり
シンママになった。
成人した息子たちが
母親を前に、否定することのできない
我が家には、いまだに
やってくるらしい
サンタクロース🎅
それは、もしかしたら
シンママとして生きることを決めた
かつての少女が
我が息子達を見守り、
愛情を注ぎ続ける存在が
母親である自分以外に
もう一人いるのだと
信じたかった
その存在が
サンタ・クロース🎅 という名のおじさんなのではないか。
・見た目で判断してはいけない
ちなみに結論から先に申し上げると、『黒い濃い人』は “本家超え” の可能性もあるハイクオリティスイーツだった。
正直、私の人生において “この手のパッケージと商品名” の菓子がウマかった試しはない。『黒い濃い人』はどう見たって “ネタ商品” の部類であり、よくある土産菓子と同様に『味は二の次』である可能性が高いと思われた。
が……それは大きな間違いだったのだ。
さて『黒い濃い人』の正体は、某北海道のアレと同様『ラングドシャ』である。
「黒い」ったって、せいぜい “濃い茶色” くらいかと思っていたら……
この黒さは『炭末』によるものらしいが、別に炭の味がするわけではなく、パッケージにもあるように『芋』の風味がかなり強い。
沖縄特産『ちゅら恋芋』という品種が使用されているようだ。
私が考える「サンタクロースの意味」は、「名前も明かさず、見返りも求めず、いつも子どもたちを見守り、無償の愛を与えてくれる人がどこかに存在してる」ということを子ども達に伝えることです。
時々、
「よい子にしていないと
サンタさんが来ないよ」と
子どもを脅かす人が居ますが、
私はサンタクロースは、そんな心の狭い人ではないと思っています。
そのような「無条件の愛」を与えてくれる存在を信じることで、子どもの心の中に「根拠のない安心」が育っていくのではないでしょうか。
大きくなって、「サンタクロースなんかいない」という考えを持つようになっても、子どもの頃に育った「根拠のない安心」はそう簡単に消えません。
「根拠がある安心」は
根拠が否定されたら消えてしまいますが、
「根拠がない安心」は、
もともと根拠がないので
そう簡単に消えないのです。
そして、
そのような「根拠がない安心」は子どもたちがファンタジーの世界に浸っている時代にしか育てようがないのです。
「根拠がない自信」も同じです。
ファンタジーの世界から抜け出た子どもは、大人と同じように「根拠」を求めるようになってしまうからです。
人間は、どんなことに対しても「意味」と「価値」を知りたがる動物です。
物や行為に対しても、「そのことにどういう意味があるのか?」、「どういう価値があるのかということ?」にこだわります。
その「意味」や「価値」を求めることに
一生を費やす人もいっぱいいます。
だから子どもは「なんで?」「どうして?」と聞き、古代には哲学が生まれ、その哲学の延長に科学というものが生まれ発展してきたのです。
様々な宗教や物語もその結果です。
「自分はなぜ生まれてきたのか?」
「どう生きたらいいのか?」ということに悩む人もいます。
「自己肯定感」と呼ばれるものは、「自分の命、自分という存在に対する意味と価値を自分でどう認識しているのか」ということです。
でも、その「意味」と「価値」に対する意識は同時に目覚めるわけではありません。
まず、子どもたちは「意味」を知りたがります。
子どもたちの
「なんで?」「どうして?」は
理由を聞いているのではなく
「意味」を聞いているのです。
そしてその「意味」の中に「根拠」を求めるのです。ですから、その「根拠」は
社会的な根拠とは全く別のものです。
でも、物語を失った大人達は、「物語の中」ではなく、「社会的な価値観の中」に「意味」と「根拠」を求め「理由」を説明しようとします。
だから、「社会的な価値観」が理解できない子ども達は理由を説明されても思考を停止してしまうのです。
サンタクロースの意味を
子どもに伝えることが
出来ない。
そんな現代人にとって大切なのは「物語の中の意味」よりも「社会的な価値」の方です。
その結果、社会の中から「人間らしさを支えてきた物語」が消えてしまいました。
サンタクロースという存在は、私たちに「人間として忘れてはいけない大切なこと」を想い出させるために、毎年やって来てくれるのではないかと思っています。