似非カウンセラーによる論では、ほぼ例外なく「歩み寄り」や「丁寧なコミュニケーション」が推奨されています。ですが、それは15歳の少年からすれば、「僕を邪魔者扱いする母」が「自分を正当化するための免罪符」を振り回しているようにしか見えません。
そして、彼女たちの言う「伝わったかどうかが大事」。それは彼らの親が「我が子を疎ましく思っていること」が「伝わってしまっている」という皮肉な現実を突きつけています。
受け取りようのない剛速球を無造作に投げつけてくる母の口癖は『相手が受け取れるボールを投げる』
子持ちのシングルマザーが市場の牡鹿の視界にいれてもらうために投げ続けるボールを、いったい誰が受け取るのでしょう。
彼女らが提唱する『幸せになるための戦略』の中に、我が子の行き場のない孤独をケアする項目はどこにもありません。
恋人が吐く無責任な言葉を、無理やり好意的に翻訳してみせる。けれど、現実は違う。
それはただ、面倒なことから逃げるための、大人の狡猾なバリアにすぎません。
ひとり親が望む『自立した、手のかからない、空気のような息子』という役割を、言われなくても察して演じ続ける。それは孤独な母にとっての、孤独な息子との『阿吽の呼吸』であり、『楽な幸せ』を感じとるための呼吸方法なのかもしれません。
> 僕は、母が幸せになればなるほど、透明になって消えていくしかない。
> 僕が母に『助けて』というボールを投げたとして、彼女はそれを『女としての私の人生を邪魔するノイズ』として、迷わずゴミ箱に捨てるだろう。
> 結局、親が説く『最強のチーム』に、僕は最初からカウントされていないのだ。
* 「コミュニケーション」の暴力性:
正論を武器にして、自分に都合の悪い存在(子供)を沈黙させる大人のエゴ。
* 「翻訳」の絶望:
恋人の不誠実な言葉を「愛」として翻訳しようとする母の盲目さと、そのしわ寄せを食らう息子の冷めた視点。
* 「15歳の沈殿物」: どんなに努力しても、母の「100年戦略」の中では「コスト」や「リスク」としてしか扱われない悲哀。