先日の10月中旬の四国徳島県~淡路島の続きです



大和大国魂神社/二宮神社
南あわじ市
歴史・文化
古くは淡路国の二宮と呼ばれ、平安時代に書かれた『延喜式』の中で当時の全国の神社の一覧である神名帳にも記載されています。また、『日本書紀』に登場する「御原の海人」を統率したと想定される大和氏ゆかりの神社とも伝えられています。大和国(現在の奈良県)の大和坐大国魂(やまとにいますおおくにたま)神社を大和朝廷の淡路進出に伴い分祀したといわれています。
境内から出土した「大和社印」は兵庫県の重要文化財に指定されています。境内入口に新しい鳥居が立ち、広く長い境内の奥に、社殿があります。古代の社殿は、西向きで瀬戸内海に向っていましたが、海上を通る船人が礼拝をせず祟りをなしたので、南向きに変更されたそうです。現在は南南西向きです。
御祭神:大和大圀魂命
配祀:八千戈命 御年命 素盞嗚尊 大己貴命 土御祖
中世から近世にかけては、御祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊と思われていた。国産み神話の影響によるものと見られている。
当社の創建年代は不詳。当社は大和朝廷の勢力が淡路に及んだ時、その支配の安泰を願って5世紀ごろ、大和国山辺郡の大和坐大国魂神社(現 大和神社)を勧請した、とも言われている。
1.大和神社の最初の祭主であった市磯長尾市(いちしのながおち)の出自が九州の海人族であった関係により、大和神社を海人族の住む淡路島へ特別に勧請したとする説。
2.淡路の海人の槁根津彦(さおねつひこ)が倭直(やまとのあたい)の祖と言われることから三原郡の国魂神を大和大国魂神と称したとする説。
3.淡路が大和政権樹立の最初の寄留地であったからとする説。
など諸説ある。『日本文徳天皇実録』 仁寿元年(851年)12月5日の条によれば、詔によって当社が官社に列せられている。
さらに『日本三代実録』 貞観元年(859年)1月27日の条には、神階が従二位勳三等から従一位に陞叙されたことが記載されている。
延長5年(927年)の『延喜式』神名帳に記載がある他、「主税式」においても祭祀料800束(米16石に相当)を国から受けていることが記されている。
当時国の正税から祭祀料を受けていたのは、出羽国月山大物忌社、陸奥国鹽竈社、伊豆国三島社しかなく、特別視されていたことが分かる。
社前の由緒石碑では、神を祭り地元の民衆が桜花を賞したことで「二ノ宮の桜祭」として一般に知られることになり、後に淡路国二宮と仰がれて公武の崇敬浅からぬようになった、と述べている。
桜会は3月10日に行われていたが、現在は廃絶。
正応2年(1289年)7月、一遍上人が当社に詣でて歌を詠み、これを木札に書いて社殿の正面に打ちつけたという。この木札は、『一遍聖絵』の編者聖戒が一遍の死後に訪れた時にはそのまま残っていたという。
また、室町時代には賀集八幡(南あわじ市賀集八幡)の伶人によって当社へ舞楽の奉納が行われていた。
江戸時代、徳島藩主蜂須賀家が当社を深く信仰し、元禄15年(1702年)に社領2反を寄進。その後も代々の祈願所と定めて崇敬し、社殿の改築が度々行われた。
本殿再興のほか、文政12年(1829年)と天保14年(1843年)の諸殿建立など、明治維新による廃藩置県まで行われた。
明治元年(1868年)の神仏分離令により、当社境内にあった淡路西国霊場第12番大和寺観音堂および淡路四十九薬師第2番薬師堂は移された。
明治6年(1873年)、県社に列格し、明治10年(1877年)、三原郡一円の信徒による郡費を充てて本殿および諸建物がすべて新築された。
当社の創建年代は不詳。当社は大和朝廷の勢力が淡路に及んだ時、その支配の安泰を願って5世紀ごろ、大和国山辺郡の大和坐大国魂神社(現 大和神社)を勧請した、とも言われている。
1.大和神社の最初の祭主であった市磯長尾市(いちしのながおち)の出自が九州の海人族であった関係により、大和神社を海人族の住む淡路島へ特別に勧請したとする説。
2.淡路の海人の槁根津彦(さおねつひこ)が倭直(やまとのあたい)の祖と言われることから三原郡の国魂神を大和大国魂神と称したとする説。
3.淡路が大和政権樹立の最初の寄留地であったからとする説。
など諸説ある。『日本文徳天皇実録』 仁寿元年(851年)12月5日の条によれば、詔によって当社が官社に列せられている。
さらに『日本三代実録』 貞観元年(859年)1月27日の条には、神階が従二位勳三等から従一位に陞叙されたことが記載されている。
延長5年(927年)の『延喜式』神名帳に記載がある他、「主税式」においても祭祀料800束(米16石に相当)を国から受けていることが記されている。
当時国の正税から祭祀料を受けていたのは、出羽国月山大物忌社、陸奥国鹽竈社、伊豆国三島社しかなく、特別視されていたことが分かる。
社前の由緒石碑では、神を祭り地元の民衆が桜花を賞したことで「二ノ宮の桜祭」として一般に知られることになり、後に淡路国二宮と仰がれて公武の崇敬浅からぬようになった、と述べている。
桜会は3月10日に行われていたが、現在は廃絶。
正応2年(1289年)7月、一遍上人が当社に詣でて歌を詠み、これを木札に書いて社殿の正面に打ちつけたという。この木札は、『一遍聖絵』の編者聖戒が一遍の死後に訪れた時にはそのまま残っていたという。
また、室町時代には賀集八幡(南あわじ市賀集八幡)の伶人によって当社へ舞楽の奉納が行われていた。
江戸時代、徳島藩主蜂須賀家が当社を深く信仰し、元禄15年(1702年)に社領2反を寄進。その後も代々の祈願所と定めて崇敬し、社殿の改築が度々行われた。
本殿再興のほか、文政12年(1829年)と天保14年(1843年)の諸殿建立など、明治維新による廃藩置県まで行われた。
明治元年(1868年)の神仏分離令により、当社境内にあった淡路西国霊場第12番大和寺観音堂および淡路四十九薬師第2番薬師堂は移された。
明治6年(1873年)、県社に列格し、明治10年(1877年)、三原郡一円の信徒による郡費を充てて本殿および諸建物がすべて新築された。
雨の足元が悪い中、水溜りだらけの中に参拝しました。
ここも静かな雰囲気のある所でした
岩戸神社に車🚗

行ったんですが、ガソリンもランプ付きそうだし、霧が凄く
前が見えなくて危ないので断念しました。明神岬の西濱神社
も海沿いなので諦めました。


