昔のパチンコの話を書いていると思い出してくることがある。忘れていた事が突然思い出されたりもすることもある。しかし、忘れ去ってしまい思い出せないことも数多くある。そんな昔のパチ屋の事も記憶に残っている間に、またいつか思い出した時に、色んな出来事などを書き残しておこうかと思っている。
今ハ昔。。。
兵庫県の東播磨地域にあたる所のJR宝殿駅から南方向の県道391号線数百mの所には昭和の何年からなのかはわからないが二軒のパチ屋が存在していた。
その内、今回は国道2号線宝殿駅前交差点の南東側にあった播磨会館というパチ屋について少し書き残しておこうと思う。
私の記憶が正しければ、この交差点の角地にパチ屋播磨会館が存在していたはずだが、今現在この土地を見ると不動産会社が営業しているようで、改めて見るとこんな狭い所にパチ屋が建っていたのかと不思議な感覚に陥ってしまう。
その大昔に存在していた播磨会館より南側にももう一軒パチ屋が存在していて、それは宝殿会館という私が若い頃にはよく打ちに行っていたパチ屋である。
左側建物が宝殿会館で、右側には同経営者によるスロットハウスニュー宝殿というパチスロ専門店があったが、残念ながら既に両店共に潰れてしまっている。
右側のスロット専門店は確かパチスロ全盛期4号機時代にオープンしたように思う。
ここにはあのスープラがオープン当初から200?年頃まで長きに渡り設置されていたように記憶する。
しかし、いつの間にか知らぬ間に宝殿会館が潰れるよりもかなり以前に閉店していた。
その後には食いもん屋が出来て営業していたようだが、私は行ったことがない。
宝殿会館とパチスロ専門店ともに色んな事があった思い出深いパチ屋なんで、両店についてはまた後ほど書くつもりなんで、今回は播磨会館だけの話。
そのパチ屋播磨会館のことを以前にこのブログにて少しだけ書いたことがあるが、今回改めて書いておこうかと思う。
それと前回には店名を隠していたが、別に出しても何も問題はないので、この度は店名を出しておこう。
(´ω`)y━・~~
しかし、まあ、何ですなあ。
播磨会館やら宝殿会館って大昔のパチ屋の店名には◯◯会館とかが流行ってたんやろね。当時の流行の最先端のつもりで命名してたんかもしれんな。
その播磨会館がいつ誕生したのか私は全く知らないが、パチンコなどに全く興味がなかった子供の頃の微かな記憶によると、多分昭和40年代から50年代に営業を始めたと思われる。
何の根拠も無いし、私の記憶も全然当てにならないがね。😅
播磨会館は大昔からよくある典型的な小規模パチ屋であったが、その建物は二階が従業員の住まいとかで使用されていたように見えていた。
そのパチ屋の裏手からは、洗濯機が置かれていたり、タオルなどが干してあるのが丸見えだったりとか生活感丸出しだった。
最近のパチ屋でも大昔からまだ生き残っているパチ屋なら裏手に回るとそんな感じのパチ屋もあったような気もする。
播磨会館の店内では、大昔には当たり前だったかと思うが、床は全面板張りでコールタールの匂いがキツかったのを覚えている。
銀玉を落とすと油まみれになりそうなそんな見た目はギトギトしてそうな床であったし、独特な臭いがしていて、オマケに歩くとギシギシ音を立てていたように記憶する。
そんなに打ちに行くこともなかった播磨会館だったが、稀に気紛れで打ちに行くことがあった。
その播磨会館にて打っていた記憶がある機械の一つは羽根物の道路工事。
【道路工事】
1990年登場
メーカー三共
羽根物
賞球数ALL13
最高継続回数8回
これは以前にもこのブログに書いたことだが、大昔に交通事故に遭い入院していた時には、看護婦に黙ってリハビリだと病院を抜け出して打ちに行っていた。
詳細は【『道路工事』~ ◯◯会館での大昔の思い出話】にて書いているのでここでは省略。
入院中に、この播磨会館にやって来ては、少しの時間だけ気分転換にこの道路工事を打っていたのを覚えている。
いつ来ても客はどのシマにも全くいないか、いても一人か二人程度だったんで、よくこんな状態でよく営業し続けられるもんやと、税金対策なんかねとか訳わからん事を思っていたなあ。
まあ、それでも気分転換に少しの金で少しの時間を楽しんでから、また静かに病室へと戻っていったんで、特に看護婦に怒られることもなかったし、退院するまでそんな感じで時折抜け出して播磨会館へと打ちに行っていたのを思い出す。
まあ、リハビリしかやることがなかった入院中に、ええ気分転換になっていたんだと思うなあ。
ƪ(˘ω˘)y━・~~~
続。