長い長いパチンコの歴史。




⚫︎1920年代に1銭パチンコが誕生。

1銭銅貨を投入すると球が1発出てきて、入賞すると2~3銭が返ってくるというもの。


⚫︎1930年には、名古屋で日本初のパチンコ店が営業許可を取得し、開業する。


⚫︎第二次世界大戦が始まる頃には、パチンコの製造販売が全て禁止される。


⚫︎1946年に、戦後のパチンコ第1号店となる「浄心遊技場」を正村竹一氏が名古屋に開業する。


⚫︎1948年 貸玉料が1個1円になる。


⚫︎1949年 貸玉料が1個2円になる。


⚫︎1949年に「正村ゲージ」が導入されると、パチンコ人気が急上昇する。


⚫︎1951年にはパチ屋が全国1万2000店にまで増えた。


⚫︎「連発式」と呼ばれる球を連続して打ち出せる機種の登場により、1952年にはパチ屋は4万店となり、第一次パチンコ黄金期を迎えた。



この第一次パチンコ黄金期の頃の1950年前後に続々と大手メーカーが誕生。

丸新物産(ニューギン)
竹屋商会(竹屋)
西陣
京楽
大一商会



⚫︎1960年にはチューリップ役物が登場し、パチンコ業界は第二次の黄金期に突入する。


⚫︎1961年「三店方式」が考案される。


警察OBである水島年得氏が考案した三店方式

パチンコの景品であったタバコを客から安く買い取り、それをパチンコ店に売る事で利益を得る仲介人としてヤクザといわれるモノが存在していた。

その利権を得ていたヤクザの排除の為に、警察とパチ屋との間で合意が成されたのが、この三店方式」だった。


・「パチンコ店」「交換所」「景品問屋」の3つの店がそれぞれ独立していること。

・特殊景品は、それ自体が一定の市場流通性(価値)を持っていること。

・交換所で買い取られた景品が、そのままパチンコ店に戻らないこと。

この3点が守られていれば換金は問題ないだろうという事がパチンコ店と警察の間で合意された。


この様な経緯があったので、三店方式の成立に積極的に関与した警察は現在も今更違法だとは言うことが出来ない。



⚫︎1972年貸玉料が1個3円になる。


⚫︎1973年 電動ハンドルが登場。

こんな時代には私はまだパチンコを打ったことはないと思う。

以前に、昔のパチプロ田山氏のパチプロ日記の漫画を読んだことがあった。

「初期の電動ハンドルは、今のような丸い形のものじゃなくて、手打ち式のハンドルをそのまま引きっ放しにするような感じで打つ…」
という。

そんな手打ち式から電動ハンドルへと移行していく中での日々の稼働の様子を日記に書いていた。その心の葛藤が印象的ではあった。



⚫︎1977年 3メダル5ラインのスロット機登場。


⚫︎1978年 貸玉料が1個4円になる。




パチンコが誕生した頃からの超簡単おおまかな歴史と進歩。(年代等誤りがあるかも…^^;)




貸玉料金。


戦後間もないというそんな時代で、物価の急上昇等の影響もあり、一年で貸玉料金が1円から2円の倍の料金へと変えた。


1972年に貸玉料が2円から3円へと上がり、1978年に4円へとなったのは、日本の高度成長期に経済の成長と物価の上昇とともに値上がりしていったと考えられる。


その後1978年の貸玉料4円が、物価の上昇は何倍にもなっているというのに現在もそのままの4円がまだ続いているというのも驚きだ。


そう考えると4円が妥当な料金なのか難しいところ。


かと言ってこれを一律5円や10円に上げたり、3円や2円にするなんて事は出来ない。無理。


貸玉料銀玉1個10円となるとそれはまた別物の博打となりそうやね。
それはもう裏カジノだな。



そんな昔の昭和時代のパチンコは、サラリーマンの収入から見ると貸玉料金としては、娯楽としては、とても高額なモノだと思われる。


そもそも貸玉料が高過ぎるのか?


それは人により、収入や貯蓄や金銭感覚により、安く感じる人もいれば高く感じる人もいるのは当然のこと。

ギャンブルのレートの高低なんてのは、人それぞれが感じるモノ。


何かを購入する際にも0が一つ二つ一般人と異なる金銭感覚の人もいる様に

その目的のモノがその人にとってどれ程の重要性があるのかが異なる様に

パチンコの貸玉料の4円を高いとか低いとか感じるのも人それぞれ。


そう言えば、どこかの社長さんがカジノで百数億負けたなんて話もあった。
それはもう依存症の究極。



世の中に4円が高過ぎると思う人が多かったからなのか、そんな貨幣価値の時代だったのか、そんな流れの中で近年の1円パチンコがその時代の人々の金銭感覚と合致し、1円パチンコが誕生したのだろう。

しかし、それが一層パチンコ苦難の道へと向かわせることとなる。


有り得ない話としてだが
パチンコの貸玉料金の上限を1個10円までとしたならば、そこにはパチ業界の未来が見えるかもしれない。

しかし、その世界には
もうすぐカジノが居座る。





長い長いパチンコの歴史の中では、パチンコの機械の進歩もあった。



⚫︎1980年
業界初のデジパチ三共の『フィーバー』登場。





それから後の話は、また。。



続。