ネットの朝日新聞の記事に
障害は個性なのか?
という見出しがあった。

私は、私学高校の社会科教員を6年間勤めたあと、障害のある子どもたちの成長をお手伝いする仕事をしている。現在で約2年経とうとしている。


障害は個性なのか?
その記事は、一般学校と支援学校の子どもたちの交流会に参加しない生徒の話から始まる。
1日会ったくらいで友達になれるわけがない。
交流会に参加する意味が分からない。
こう主張する支援学校の生徒。
その担任の先生が、
明日に交流会を控えたホームルームで
明日普通学校の友達と交流会があります。
と話し出した、
その時、涙ながらに
普通ってなんですか?と主張した先程の生徒。

その時の担任の返答が
ごめんね。でも大丈夫だよ。障害は個性なんだから。

要約すると、こういう内容だ。
筆者は、この障害は個性だという話に引っ掛かったと言うことである。

そして、結論には、
障害は個性だという人たちは大体が健常者である。
障害が個性かどうかは、本人が決めることで
周りが決めることではない。
障害は障害なのである。
筆者の会社で働く
障がい者たちは、
障害は個性と美化されずとも
一生懸命、自分自身の社会的な役割を果たそうと努力している。
障害だからと言い訳することはない。


と言う内容だった。


障がい者、障がい児たちは、
確かに、福祉の力を借りないと生きていけない方々も多くいる。その点では社会的弱者なのかもしれない。
しかし、その方々でも、必ず社会的役割がある。
なにか、社会に貢献することができる。

私は、
人間は、誰しも
社会に貢献することが大切だと考えている。
そして、それは誰でも可能だと考えている。

公の為に、誰かの為に
何かをすること。
これが私達の人生の糧であり、幸せの始まりであると確信している。
誰かの為に、
家族などの
目の前にいる誰かだけではなく、
自分の仕事の結果、どこかの誰かが幸せになる。
それが私達の人生を豊かにする。

障がい者にとってもそれは、例外ではないと考えている。
今まで出逢った子ども達、
一生懸命、努力し
ほんの少しでも成長してくれると
少なくとも
私は幸せになれる。
それが本人をも豊かにする。

自分の、頑張りの結果、私が幸せになった。
明らかに
社会的役割を果たしている。


障がいが個性なら、
学校においても
同じように扱わなくては筋が通らない。
障がいは個性だから、
障がいによってその子が困ったことでも
個性として受け入れなくてはならない。
これほど、冷たい社会はないだろう。
障がいは障がいなのだ。
その中でも、その子らしさ、その子だけの個性を光らすことも出来るのだ。


障がいを乗り越えて、個性を発揮する。
乗り越えると言うのは、
治すや克服するというイメージがあるので
誤解なきよう。
乗り越えるということは、
自分自身の障がいを受け入れ、
その上で、障がいの有無に関わらず、
その人が自分の特性を磨き、その人らしさを発揮することを指す。

私は、子どもたちに対して
これを、目指して
あえて特別扱いをしないこともある。
当たり前のことを当たり前にできるように
高いレベルを求めることもある。
それは、障がい児、健常児、に違いはない。

その上で必要なフォローや介助を行い、障がいの部分を補う。

それが、私の目指す目標である。

障がいは、個性にもなりうる。

これは、本人次第なのだ。
そのことに、障がいの有無は関係ない。

そう考えます。
誰しもが当たり前に過ごせる社会。
それは、誰かを誰かが枠にはめ込まない社会であってほしい。