価値観の違い、これを乗り越えることは
大変難しい。

一緒に何かを成し遂げることも
協力することも
難しい。

チームには
価値観の違う仲間が必要だ。

目線も違って考え方も違う人達がまとまることに
強みが見出される。


仕事もそうだ。

しかし、
根本的な価値観が違うと
同じ方向へ進み出せない。


なぜ、どうして、
そんなことをする意味は?
そこに疑問を持ち
議論を、深めることができれば
お互い理解し合える。

しかし、
その議論を
感情的にしてはだめだ。

あくまでも客観的に
事実に基づく議論をしなければならない。
こう思う、きっとそうに違いない、
こうあるべきだ、などと言う主観、感情で
議論されては、結果ありきの議論になる。

価値観の違いを認めつつ
違いを活かすチームにはなれない。


特に、子どもに接する仕事をしていて
本当によく感じることだ。

教育的感覚は、特に育った環境によって
大きく違う。

しつけの部分が大きな影響を与える。
親にこうあるべきと教えられ
それに沿って良い子に生きてきた人達が
教師や指導員をしていることが多い。
真面目に一本気に生きてきた方々は
子ども達にもこうあるべきを押し付けることが多い。
自分も親や教師の言うことを聞いて生きてきたから
価値観の押し付けを疑問なくしてしまう。
普通、こうするべきだろう。
私はこの部分が許せないから指導する。
そんな感情に基づく指導は、
場所が変われば通用しない。

こうあるべきは、それぞれに違うのだから
私が許せないことは、あなたが許せないことであって、あなたではなければ許されることかもしれない。

そんな、普遍性のない指導はするべきではない。

他人からかわいがってもらえるようにするため。


これほど、エゴで偽善的な指導はない。

普遍的に誰からも可愛がられる人間なんていない。
他人から可愛がられるようにする指導とは、
結局、自分がみて可愛いと思えるような人間に形付けているだけ。
あなたが可愛いと思うような、同じ価値観の人間が量産されるだけ。
他人から可愛がられるようにするために
色々なことに取り組む、、、。
他人が思う、可愛いの基準をあなたは理解していますか?
誰からもみて可愛いと思われることを理解していますか?
これほど危険な感覚はないだろう。
まるで自分が可愛いと思う価値観が世間一般を代表しているように感じている。
自分が普遍的な可愛いを全て知っているような振る舞いは、教師的勘違いだ。
善悪の判断、良し悪し、全て教師や指導員の裁量による。だから、まるで全知全能の神のように勘違いをしてしまう。
私が普通であって、私が思う可愛いいう基準は、普遍的だ。私が判断する良し悪しは、世間一般を代表しているのだ。
これほど、独裁的な思考はない。

そこに必ず話として上がることは、
挨拶、返事をする子達は可愛がられるから挨拶、返事をしましょう。

挨拶したから可愛いと思える?
返事したから可愛いと思える?
なんと、表面的な、、、
清々しく挨拶をするから次のコミュニケーションを円滑にはかれるんでしょ?
話をよく聴き、内容を理解してから気持ちのいい返事をすることが大切なんでしょ?

結局、自分の言うことを再現してくれる子が
良い子になる。
それは、あなたがそうして生きてきたからだ。

教育の中の教師の役割は、ロイター板のように
背中を蹴り上げ、高く飛び越えさせることにある
と常に考えてきた。

私の価値観を飛び越える素晴らしい人間にするには、
私の価値観を押しつけることはできない。

私以上に、素晴らしい人になるよう
私を飛び越えてもらいたい。

主観、私心、感情の教育、指導を改めたい。
あくまでも謙虚に客観的に、何度も自問自答して
その時のベストを尽くそうと努力を繰り返しながら
教育、指導を行いたい。
傲慢な心は教育にとって何も生み出さない。