普通、、、

この言葉を極力使わないようにしている。

こんな事あって、
最低やと思わん?
普通、何々するやろ?

良く、こんな会話を耳にしてきた。

普通、こんな事をしないだろう。
普通、これをするだろう。

普通、、、
辞書で調べると

「いつ、どこでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持っていないさま」
「広く、通用する状態のこと」

と、ある。

普通、何々するやろ?
という会話の中には、
常識、という普遍的な「こうあるべき」
という思考が深く関わっている。

常識、、、
辞書で調べると

「健全な一般人が共通に持っている、または、持つべき、普通の知識や思慮分別」

これは、非常に難しい。
健全な一般人が共通に持っている
普通の知識や思慮分別

一体、どんなモノなのだろうか?

私達は、育った環境も違えば持っている価値観、思考パターン、全てが違う。
同じような環境で育ったであろう兄弟でさえ、全く違うのだ。

一般的な常識、マナー。

これは、家庭教育で身につける、いや、身についていくものである。
学校教育では、身につかない、いや、教えられないのだ。何故なら、誰もが違うからだ。

我が家の常識は、一歩外に出れば
普遍的ではないと気づく。

我が地域の普通は、地域が違えば
普遍的ではない。

我が国の当たり前は、国が違えば
普遍的ではない。

閉鎖的になればなるほど
この得体もしれない
普通、健全な一般人が持っているという
当たり前の知識に縛られていく。

この、得体もしれない常識、普通から迷わないようにする為に、法律があり憲法がある。
誰かに迷惑をかけることは許されませんよ。
それは、普通から外れていますよという目安になる。

その他、人間関係を円滑に保つための
コミュニケーションは、取るべきだが
それが普遍的なことであるべきではない。

今の日本は、
この普通、常識に縛られすぎて
「こうあるべき」から抜けられないでいる。
だから、自粛警察なるものが現れ
まるで、普遍的な普通の代表者であるかの如く
社会を切って捨てようとする。
特にSNSでは、この風潮になりやすい。
それは、閉鎖的だからだ。
SNSは、グローバルの代表のように語られるが
その、プラットフォームから抜けることはできない。
世界と繋がれるが、そのSNSから抜け出ることはできないというところに、世界が詰め込まれている。
だから、閉鎖的なのだ。

「こうあるべき」から抜け出すことこそ、
日本の成長の希望だと思う。

私が普通という言葉を使わなくなったのには、
些細な理由がある。
高校生のとき、
部活帰りにコンビニでチョコボールを購入した。
帰り道に食べたのだが、その食べ方に友達が
「普通そんな食べ方せんやろ?」といってきた。
部活帰り、野球で血みどろになった手で食べたくなかったので、チョコボールの口のところを全部開けて
ラッパ飲みのように食べていたのだ。
俺には理由があった。しかし、そいつは、自分の狭い価値観で普通と言ってのけたのだ。

そいつのチョコボールの食べ方は、いちいち手に受けてそこから食べる方法が普通らしい。
アホくさ!それ健全な一般人が持っているという普通の知識、思慮分別か?

その時は、いちいちうるさい奴、と思っただけだが、
後々、なんと危険な思考かと感じるようになった。

そこから、普通という言葉を
軽々しく使うことはやめた。

皆さん、何気なく「普通」という言葉を使っていませんか?
それは、あなたの普通であって普遍的な常識とは限りません。
他人へ普通を強要するのは、危険な思考です。

あなたが思う普通をあなたが実行すれば良いのです。
そうすれば、あなたの思う普通から外れることはないでしょう。
ですか、他人をもあなたの普通に当てはめる必要はありません。
また、その他人もその人の思う普通で生きているのです。

あなたの、私の、
普通とは、なんでしょうか?

普通なんて、存在しない。

私は、私であること
それが普通なのです。